四日市市川原町の「伊藤鈑金工作所」は、ブリキの衣装缶やトタンの雨といなどを制作する錺(かざり)職人だった祖父の故武雄さんが、昭和2年に創業した。2代目の父孝さん(85)の時代には、工務店やゼネコンの下請け企業として屋根や外壁などの建築鈑金を手掛けるようになった。
平成10年に父を継いで3代目となり、リフォーム事業に進出した。「家業から企業へ」をスローガンに、施工主からの直接受注に力を注ぐようになった。現在は、近江商人の心得「三方良し」を社訓に掲げ、社員11人が結束して、北・中勢地域を中心に事業を拡大している。
四日市市で2人きょうだいの長男として生まれた。母博子さん(80)の勧めで、小1の時にボーイスカウトに入団し、中学卒業まで9年間活動を続けた。中2の時、北海道で開催された日本ジャンボリーに県代表として参加した。「皇太子殿下(現天皇陛下)に声を掛けてもらい、子どもながらに緊張した」と懐かしむ。
手に職をつけようと、四日市中央工業高校土木科に進んだ。当時、団地造成など住宅建設のラッシュで家業が繁忙を極めていた。下校時には校門で待つ母の車に乗り、車内で作業着に着替えて現場に直行し、職人らを手伝う日々が続いた。慌ただしい日々の中で、少しずつ家業をうとましく思うようになっていた。
高校卒業を前に、「大学に進学したい」と伝えると両親は賛成してくれた。中京大学法学部に進学し、名古屋市で暮らし始めた。家業から離れたかったという後ろめたさから、大学の4年間はほぼ家に帰らず、休み中はアルバイトをして過ごし、東京の中堅ゼネコンに就職を決めた。
入社後は総務に配属され、現場の事務職として各地の現場を回った。ゼネコンの組織や人間関係など、どうしてもついて行けない事が重なり、3年後に退社を考えるようになった。悩んだ末、「伊藤鈑金で使ってほしい」と両親に頭を下げた。父は「そうか、大変やぞ」とひとこと、母は満面の笑みで迎えてくれた。
職人として働き始めて4年目、工場の屋根で作業中に転落して腰を痛め、半年間の入院生活を経験した。医師から、もう現場仕事は無理だと言われ、会社の将来を模索する中で、下請けでなく、元請けとして施工主からの直接受注に切り替えていこうと思い立った。
退院後、大手建材メーカーと提携してリフォームのチラシ配りから始めた。これまでの、仕事を待つ態勢から、積極的に受注を得ることで、顧客目線での提案とより良いものを低予算で提供できるようになった。浴室やキッチンの改装をした顧客から、「家のことは全部任せる」と、屋根や外装補修を頼まれたり、親戚や知人を紹介してくれたりする顧客も増え、元請け実績が7割になった。
長女が嫁いだ後は、両親と妻良子さん、長男、次男の6人暮らし。母から経理の仕事を引き継いだ妻とともに、息子たち2人も職人として会社を支えてくれている。「創業から90年。社員とその家族の幸せを第一に、社会に必要とされる会社として100年企業を目指したい」と語った。
略歴:昭和34年生まれ。同57年中京大学法学部卒業。同年中堅ゼネコン入社。同59年伊藤鈑金工作所入社。平成10年伊藤鈑金工作所社長就任。