四日市市楠町の「長谷川シャッター工業」は、大阪で板金の修行をした祖父の故達吉さんが昭和2年に創業した「長谷川ブリキ店」が前身。創業当初は近隣の神社仏閣の屋根や壁、衣装ケースなどの製造を手掛けていた。
父の故敦さんの代にはオリジナルバケツや風呂桶の生産に加え、昭和41年、米発祥の巻き取り式シャッターの製造に着手した。アルミ製シャッターをはじめ、サッシ、ドアなど鋼製建具全般を取り扱うようになった。昭和52年に社名を「長谷川シャッター工業株式会社」と改め、北・中勢地域に営業エリアを拡大して業績を伸ばした。
平成13年、会長に退いた父から経営を引き継いだ。「技術の進歩によってものづくりの仕事は誰でもできるように進化していくが、人はあなたでなければと言われるように日々努力して成長していかなければ」という先代からの教訓を社員20人と共有し、共に製品とサービスを通じて地域に必要とされる企業を目指している。
楠町で3人兄弟の長男として生まれた。幼少時からしっかり者で、忙しい両親の手を煩わせないように保育園の上履きは自分で洗い、小学低学年で家族にカレーを作れるようになった。「『ありがとう。おいしいね』と喜んでくれた父母の笑顔がうれしかった」と懐かしむ。
母の勧めで小3から剣道を始めたが長続きせず、小5からサッカーに転向して練習に打ち込むようになった。中3で全国大会出場を果たし、高3でも全国高校サッカー選手権大会に出場した。
高3の夏、四日市サッカー協会から国際大会に出場するためドイツに派遣され、世界のレベルを体験する貴重な機会になった。1カ月間のホームステイを受け入れてくれたホストファミリーとは、現在もお互いに行き来する家族ぐるみの親しい交流が続いており生涯の宝となっている。
高校卒業後は長谷川シャッターに入社。アルミ板の成型から加工、組み立て、塗装までの電動・手動シャッターの製造工程、現地での施工までを先輩社員から習得した。2年目からは父と取引先を回るようになり、受注から引き渡しまで社内全般の仕事を頭に詰め込んでいった。
ある時、火事を出した取引先から工場のシャッターを急いで作ってほしいという依頼があり、社員総出で残業をして3日後に取り付けたことがあった。「こんなに早く戸締まりができるようになってありがたい」と感謝され、父や社員らと疲れを忘れて達成感に浸った。
35歳で父から経営を任された。大型店舗や企業の社屋、工場など、それまでより間口が広い大型シャッター需要の高まりに応えられるよう新工場を増設し、事業規模を拡大した。また、メンテナンスサービス部門を新設し、シャッターだけでなく営繕全般の相談窓口として各企業の困りごとを聞き取り、専門業者を紹介するなど解決に向けた取り組みを始めた。
社会人になってからは、地元の市民リーグ楠クラブでサッカーを続ける傍ら、県サッカー協会女子委員長として楠女子サッカークラブの設立に関わり、コーチを務めた。4年前には、桑名市のサッカーチーム「ビアティン三重」のシニアチーム創設に参画し、監督を務めている。
3年前から、地域児童の社会見学のために工場を開放してシャッターの製造過程を紹介している。さらに、大学生の長期インターンシップの受け入れも始めた。若い世代に、体験を通してものづくりの楽しさを知ってもらい、社会体験の場を提供することで地域貢献ができればと考えている。
「時代の変化に伴って出てくるさまざまな問題に社員一丸となって挑戦し、新たな価値を創出し続ける企業を目指したい」と語った。
略歴: 昭和41年生まれ。同59年県立四日市工業高校機械科卒業。同年「長谷川シャッター工業」入社。平成13年「長谷川シャッター工業」社長就任。同27年県中小企業家同友会理事就任。