津市中央の「クラユニコーポレーション」は、高祖父の故政男さんが同市岩田町で明治45年に創業した医療用白衣と洋品雑貨の店「倉田商店」が前身。大正期に営業拠点を神戸市に移したが戦後は再び津市に戻り製造力増強のため昭和39年に同市丸の内に縫製工場を新築し、四日市市に支店を開設して商圏を県内全域に拡大した。
昭和40年に有限会社「倉田白衣」とし、同51年には店舗、縫製工場、事務所を備えた5階建ての本社(現在地)に移転。品質の良さを評価され東海北陸全域の国立病院に医師、看護師、手術用の白衣などの納品をきっかけに受注が増加し業績を飛躍的に伸ばした。
平成6年に株式会社「クラユニ・コーポレーション」と社名を変更し、同24年にはユニフォーム一筋創業100周年を迎えた。平成30年、亡き父伸雄さんを継いで5代目社長に就任した。
津市観音寺町で3人きょうだいの次男として生まれた。幼少時は、休みになると家族で父が操縦するヨットでセーリングをしたり、野外でキャンプをしたりして楽しんだ。小学生になってからはソフトボールの傍ら、ピアノや英語、水泳教室にも通った。
三重大付属中学から高田高校に進み、2年生になった頃から洋服に興味を持つようになった。手始めにパジャマのズボンを解体し、布を裁断してミシンで縫い合わせた。何度試してもうまくできず、洋服作りを基礎から学びたいと思った。卒業後は服飾専門学校で学びたいと両親に話したが反対され、東京経済大学に進学した。
洋服作りの夢を諦められず経営学部で学びながら、アルバイト代で新宿のモード学園夜間部に通い始めた。デザイン画やパターン技術、縫製などを基礎から学び、2年半で洋裁技術検定初級と色彩検定3級を取得した。
3年生の時、大手アパレルメーカーで1カ月間のインターンシップ研修を受け、商品の流通管理、店舗接客などを学んだ。研修をきっかけに、将来はアパレル業界で新商品の企画や販売促進を手掛けるマーチャンダイザーになろうと決意した。
卒業後は、アパレル業界への進出を目指すユニフォーム卸メーカー「ボンマックス」に入社し、営業部に配属された。就職したことを両親に伝えると、「同業者でしかも競合会社とは」と父は絶句した。「それまで家業に全く興味がなく、ユニフォーム業ということも知らなかった自分が恥ずかしかった」と振り返る。
入社から2年後にはカジュアルウェアを手掛けるようになり、新規取扱店を増やして業績を伸ばしていった。その翌年、父から会社を継いでほしいと電話があり、退社して実家に戻った。父と親交のある東京の同業者の会社にクラユニ社員として出向、新規開拓事業に2年間携わった後、クラユニ名古屋支店で営業実績を上げた。
本社に戻った後は中小企業大学瀬戸校で1年間、経営について学んだ。父と2人で話す機会が増え、親子の絆を深めることができた。父は息子への事業承継のために準備を整えた後、急に体調を崩し社長交代日直前に「よろしく頼む」と言い残して亡くなった。生前、友人に「息子が戻ってきたというより、友だちが1人増えたようだ」と目を細めていたという。
「会社と社員が共に成長することを目指し、社会になくてはならない企業として常に改善を」という経営理念をしっかりと継承し、父が大事にしてきた会社を社員約50人と共に守っていこうと誓った。令和元年には、生産性向上と需要獲得、担い手確保の3分野で評価され、経済産業省の「はばたく中小企業・小規模事業者300社」に選定され大きな励みとなった。
経理を担当している妻貴恵さんと2人暮らし。家事は分担し、休日は夫婦共通の趣味のキャンプに出掛ける。星空を眺め、鳥の鳴き声で目覚める心地よさが何よりのリフレッシュになっている。
昨春、コロナ禍で入手困難だったマスクや予防衣を製造して取引先に喜ばれた。心を込めたサービスで信頼関係を築き、顧客満足度をより一層上げていきたいという。「今後は、さまざまな分野の講師を招いた研修会などで社員のスキルアップを図って仕事へのやりがいにつなげ、東海3県のユニフォームシェア、ナンバーワンを目指したい」と語った。
略歴: 昭和59年生まれ。平成14年モード学園入学。同17年東京経済大学経営学部卒業。同年「ボンマックス」入社。同20年「クラユニコーポレーション」入社。同30年「クラユニコーポレーション」社長就任。