四日市市西日野町の「ヤマナカ製作所」は、鍛冶屋の家業を手伝っていた父の故廣繁さんが昭和38年に創業した「山中製作所」が前身。住宅窓の外側に取り付ける鉄製の面格子製作から建築物の重量鉄骨の加工、組み立てを手掛けるようになり、同50年代からは工場や倉庫、店舗、住宅の総合請負会社として市内を中心に業績を伸ばしている。
平成21年に父から経営を引き継いだ。同23年から三重大学と産学連携による共同研究で大地震発生時に家族の安全を守る鉄骨シェルターの開発に取り組み、同29年に「マイシェルター」を完成させて特許を取得した。既存の木造住宅に緊急避難部屋として低コスト、短工期で導入できる「マイシェルター」は多くのメディアで紹介されて注目を集めた。県外からの問い合わせも多く、今後は全国展開を視野に入れている。
「建築を通してお客さまも社員も幸せな生活を築く」ことをモットーに、社員6人と土木、内外装、電気、水道などの協力会社数十社の従業員が心を一つにして最高の作品造りに励んでいる。「建築プランの立案から設計、施工、アフターサービス、メンテナンスまでトータルでお任せいただきたい」と話す。
四日市で3人きょうだいの長男として生まれた。小学時代は、授業中じっとしているのがいやでよく教室から抜け出していた。近くのため池でザリガニ釣りをしているところを先生に見つかって何度も叱られた。「勉強は嫌いだったが、図工と書道だけは得意でよく賞をもらっていた」と振り返る。
四郷小、笹川中から海星高校に進んだ。卒業を前に大学に進学することは考えられず、かといって3Kのイメージが強い家業の建設業を継ぐ気もなかったため、名古屋に本社を置く英語教材販売会社の四日市支社に就職した。
英語教室の生徒を募集して、教材を販売するという最も苦手だと思っていた営業職に携わった。慣れない飛び込みセールスで来る日も来る日も断られ続け、4カ月目に初めて契約が取れた時は飛び上がるほどうれしかった。その後は、徐々に仕事にやりがいを感じるようになっていった。
その頃、父と晩酌をしながら互いの仕事の事を話す機会があった。初契約を取れたときの話に耳を傾けていた父の、「建築の仕事も普段からの付き合いや営業力が必要だ。受注できたときはうれしい」という言葉に共通するものを感じ、初めて父の仕事に興味を持った。仕事を手伝いたいと言うと、父は「そうか、やってみるか」と快く受け入れてくれた。
2年間勤務した教材販売会社を辞め、「ヤマナカ製作所」に入社した。経理を担当していた母まゆみさん(77)も、温かく迎えてくれた。現場の掃除や雑用から始め、先輩社員らからボルトの穴開け、溶接、鉄骨の切断加工などを教わった。
その後、建築の基礎から学ぶため設計事務所に出向し、父の友人の所長の下で2年間働きながら学んだ。その翌年、27歳で2級建築士の資格を取得した。「人生で初めて寝る時間を惜しんで勉強した」と振り返る。実務経験を経て、34歳で1級建築士になった時は、所長も両親も大喜びしてくれた。
妻と子ども3人の5人家族。春から夏にかけては月2回ほど、息子と海釣りに出掛ける。また月1、2回は親しい友人らとゴルフを楽しんでいる。「趣味の釣りやゴルフでリフレッシュすることが仕事への活力につながっている」と話す。
男性社会と思われがちな建築業界だが、家造りでは動きやすい家事動線、床材やクロスの提案など女性ならではの細やかな視点や配慮が顧客から喜ばれている。「我が社の女性社員の活躍も目を見張るものがある」と話す。市が開講している「ウーマン起業塾」のサポート企業として起業を志す女性の支援もしている。
「防災について産学連携で研究を重ね、今後は個人住宅向けだけでなく、企業にも導入できる耐災害シェルターの開発に力を注いでいきたい」と意欲を語った。
略歴: 昭和39年生まれ。同58年私立海星高校卒業。同年英語教材販売会社入社。同60年「ヤマナカ製作所」入社。平成11年1級建築士資格取得。同18年宅地建物取引主任者資格取得。同21年「ヤマナカ製作所」社長就任。令和元年四日市機械器具工業協同組合理事。