松阪市魚町1丁目の牛銀本店は、松阪牛のすき焼き鍋専門店として、地元を中心に県外からの来店客も多い。精肉販売などもしている。明治35年曽祖父の銀蔵さんが創業した。
10月23日、現会長で父親の正典さん(73)から4代目を譲り受けたばかり。「みんなと協力して、人の痛みや気持ちが分かる社長になりたい」と、やや緊張した面持ちで抱負を語る。
3人きょうだいの長男として生まれた。来客の絶えないにぎやかな家で育ったせいか、人と接するのが好きな社交家タイプ。「人を楽しませることが好きな子どもだった」と人懐っこい笑顔を見せる。
両親は店の仕事で忙しく、食事は仲居の女性たちと賄い食を一緒に食べることが多かった。「家族団らんで、母の作った料理を食べることは少なかった」と振り返る。おばあちゃんっ子で、伸び伸びと育てられた。
中学生の頃のあだ名は「牛銀」。当時は先生たちからもそう呼ばれるほど、浸透していた。「今でも同級生には呼ばれる。あの頃は恥ずかしかったけど、今になって思えばいい宣伝になっていたのかも」と笑う。
「毎日の弁当は御飯と肉。ふたを開けたら白と茶色」。母が忙しい時は父が作ってくれた。「友人たちの色とりどりのカラフルな弁当がうらやましかった」と思い返しながら、「よく友人や先生と、肉とおかずの一品を交換した」と当時を懐かしむ。肉といっても高級松阪牛。友人たちも喜んだに違いない。
父親から跡を継ぐよう言われたことはなかったが、いずれは自分が店を継ぐのだろうと、漠然と感じていた。高校卒業後は両親の勧めで、東京にある鉄板焼きの高級仏料理店に入社。10年ほど修業を積んだ。
ホールや調理場の仕事、他店舗の立ち上げなどを経験しながら、接客や世間の厳しさを学んだ。中でも、客の前での対面調理は「話術や手先の器用さ、気配りなどが必要で、勉強になった」と話す。「目の前のお客さんの状態で、焼き加減や味加減を見極めなければければいけない」
「料理は食材も大切だが、ちょっとした気遣いが大事。会話の断片などから相手の求めるものをキャッチすることで、それ以上の満足感を得てもらえる」と言い、その思いが仕事のやりがいにもつながっている。初めて人前で焼いた時の客は、常連客で厳しかったが、学ぶことも多かった。「今でも年に1回、東京から松阪まで食べに来てくれる」とうれしげに目を細める。
29歳で実家へ戻り、レストラン部門の厨房(ちゅうぼう)アシスタントから始めた。料理人で職人かたぎの父親の下、東京で得た技術を生かしつつ「地元の味」を大切にしてきた。経営については母親から教わった。
「父の背中は偉大」とプレッシャーは感じるが、「地道にいくことが一番と信じ、腹をくくってやるしかない」と覚悟は決めた。「父も肩の荷が降りたはず。これからは好きなことをしてほしい」と優しい息子の顔になった。
略歴:昭和45年生まれ。松阪市出身。平成(11)年牛銀本店入社、同26年社長就任。