四日市市茂福町の製網機設計・製作会社「東洋工業」は、昭和12年、曽祖父の6代目勘作氏が設立。寛政6年創業の漁網製造販売会社「網勘製網(現・アミカン)」の鉄工部を独立させ、製網機械の製造販売を始めた。平成23年、会長に退いた父の8代目勘作氏を継いで社長に就任した。
漁網や防球ネットなどのスポーツ網を作る機械の設計、製作、据え付け業務をする製網機部門、車両メーカーの自動化ラインなど、顧客のニーズに沿った専用機械を製作する工機部門など合わせて4部門がある。現在は、長年培ってきたものづくりのノウハウを生かし、航空宇宙産業分野への参入を視野に取り組みを始めている。
創業以来の社訓は「誠実勤勉、品質重視、納期遵(じゅん)守、コスト低減」。約70人の従業員には、「限界をつくるのは自分自身。日々の仕事をいかに効率よくできるかを創意工夫し、何が何でもやり遂げるという意識を持とう」と話す。
四日市市富田で、4人きょうだいの長男として生まれた。幼少時から活発な性格で、富田小時代は手打ち野球に夢中だった。富田中では、当時はやっていたバンドに憧れてエレキギターを買ってもらい、仲間と練習に明け暮れていた。
進学した四日市南高校では、得意な水泳を生かして水球部で体を鍛えた。東京の一橋大学経済学部に進み、勉学の傍ら、1年の夏休みはヒッチハイクで帰郷、2年生では、先輩らと北海道1周バイクの旅、3年生の時は、バイトでためた旅費で欧州9カ国を巡った。「学生時代にしかできない貴重な経験だった」と振り返る。
卒業後、1年間の米国留学を体験した。リポートを書いて提出する毎日で、物事を論理的に考える習慣が身に付き、幅広い視野から判断ができるようになったと感じている。
帰国後、「アミカン」に入社して、経理と製網の現場で研修した。翌年、「東洋工業」に入社後は、コンピューターを駆使し、各部の採算性や稼働率のデータを集積、仕入れから支払いまでの流れを大幅に短縮するなどの効率化を図ってきた。4年前、35歳で社長を任された時、代表としての重責を担っていく決意をした。
たまの休日は、父の影響で幼いころから親しんだマリンスポーツで開放感に浸る。友人とヨットに乗ったり、釣りを楽しんだり、ここ数年はスキューバダイビングにもはまっている。「いつか、沖縄の慶良間諸島の海に潜ってみたい」と話す。
「4部門の軸を固め、新しい分野への挑戦によって従業員全員が自分たちのやっているものづくりに誇りを持てる職場にしたい」と意気込みを語った。