四日市市富士町の「水九印刷」は、明治8年に桑名出身の故水谷九助氏が創業。今年、創業140周年を迎えた。木版印刷から石版、活版、写植、オフセット、デジタル印刷へと、技術の進歩とともに最先端機器の導入で、時代のニーズに先駆けてきた。平成7年、33歳で6代目社長に就任した。
小6の時、買ってもらった8ミリカメラに夢中になり、中学生のころから映画の面白さにはまった。「将来はクロード・ルルーシュのような映画監督になりたい」と、高校では映画研究部に入り、仲間と共に見た映画について時間を忘れて意見を交換し合った。
進学した学習院大で経済学、慶應義塾大大学院で商学研究科修士課程を修めた。「学年は異なったが、学習院大では皇太子殿下の姿を時折お見かけした」と振り返る。卒業後は、世界に視野を広げ、より深く学びたいと留学を考えていたが、父親の病気のために断念して帰郷。水九印刷に入社した。
平成2年、父謙司さんの糖尿病が進行した状態で見つかり、気付いたときは失明寸前だった。車椅子生活になった父を介助しながら、週3回、人工透析治療に通う日々が始まった。
あれほどエネルギッシュに働いていた父が、生まれたばかりの孫を抱いて「お前はこれから見えるようになるが、おじいちゃんはもうすぐ見えなくなるんだよ」と話しながら涙する姿に、胸が張り裂けそうになった。「夢もあるだろうが、手伝ってもらいたい」と願う言葉に、「会社を支えていこう」と決意した。
「紙積み3年」など、熟練者のやり方を見て、体で覚える職人気質が強かった印刷技術を刷新しようと、就任後は間を置かず、職人の知識をマニュアル化して、誰にでも分かるようにと、合理化を図った。以来、パソコンによる印刷の全行程のデジタル化、文字と画像を統合するなど、時代の流れに敏感に反応して近代化を進めてきた。
人生観が大きく変わったのは、4年前の東日本大震災。宮城県気仙沼出身の妻淳子さん(51)の家族と連絡が取れず、1週間後に無事が確認できるまで心を痛めた。
第2のふるさとの凄惨(せいさん)な光景を目の当たりにし、売り上げや資金繰りの悩みなど取るに足りないことだ、と思った。「当たり前だった全てのことに、感謝の気持ちが湧き上がってきた」と話す。
「社員が生き生きと働き、家族が仲良く生活できればそれが1番」と、40人の社員一人一人の意見を聞きながら、働きやすい環境づくりを目指す。
パソコンのホームページから、スマートホンやタブレットで見るホームページへの展開など、若い世代の提案も積極的に取り入れている。
「社員、顧客、仕入れ先、地域の方々に愛される企業として、一歩一歩堅実に前進していきたい」と笑顔で語った。
略歴:昭和36年生まれ。同60年学習院大学経済学部卒業。同62年慶應義塾大大学院修了。平成7年県印刷工業組合理事就任。同21年四日市商工会議所青年部初代会長に就任(同23年まで)。