鈴鹿市神戸3丁目の神戸ダイハツは、昭和38年に父親の博さん(78)が創業した。ダイハツの車を中心に扱う自動車販売整備業。
「おとなしくて、人見知りがひどい子どもだった」と幼少期を振り返る。
父親が事業を始めて間もない頃に、双子の兄として生まれた。周囲が忙しく、いつしか常に「邪魔をしないように」と気を使うようになった。ずっと劣等感の塊で、自信がなかった。人の目や声を気にして、自分が人からどう見られるかが気になって仕方なかった。
中学生の頃から、父親に後を継ぐよう言われてきたが、「後継者になりたい」と思わなかった。
父親といったん距離を置こうと高校卒業後は東京の大学へ。父親からは整備士の資格を取るよう言われたが、反対を押し切って経済学部に進学した。
「自信をつけたい」との思いが強く、「いろんな経験をすることで、変われるのではないか」と期待して、ウエーターやラーメン屋の店員、エキストラの役者、別荘地の管理人などアルバイトに明け暮れた。
卒業後は食品メーカーに就職。3年半ほど勤めたが退職し、26歳の時に友人の結婚式がきっかけで実家に戻った。
会社はちょうど人手不足で、何の経験もないまま働いていた。「訳が分からない状態」の毎日だったが、28歳で高校の同級生、美千さんと結婚。整備士の資格も取り、昼間は車の整備、夜は営業など多忙な日々を送っていたが、内心は「仕方なくやっていた」と打ち明ける。
転機は39歳。社長に就任し、しばらくしてから直系ディーラーが隣に進出してきた。危機感を持ち、店舗を改装したが、社員が半分辞めてしまった。「精神的にも追い込まれ、1番つらい時期だった」
どうすればいいか分からず、不安から父親との口論もしばしば。そんなある日、当時小学生だった長男のひと言に衝撃を受けた。「パパ、家がなくなるの?」
子どもに不安な思いをさせていたのは自分だった―。息子の言葉で、今まで悪いのは自分以外だと思っていた自分に気が付いた。初めて「このままではいけない。自分が何とかしなければ」という思いが込み上げてきた。
全国各地の販売店を見て回り、いいアイデアをどんどん取り入れ、経営について学び始めた。「考え方が変わったら、世界が全く変わってきた」
厳しい状態は続いたが、理想の姿をイメージし、できることからやっていく。やがて経営状態も少しずつ改善してきた。「あんなに嫌だった仕事が、今ではやりがい」と笑う。
1番苦しかった時期を乗り越えたことで、自信もついた。「昔は強がりばかりだった。今、子どもたちに、生きざまだけは残せる」と話す。
略歴:昭和39年生まれ。鈴鹿市出身。平成2年神戸ダイハツ入社、16年代表取締役社長就任。現三重北経営研究会事務局長、県倫理法人会事務長など。