三重郡朝日町の朝日歯車製作所は、土木会社を営んでいた祖父喜造さんが昭和23年に創業。建築資材を運ぶトロッコの変速機に使っていた歯車の破損が多く、修理部門をつくったのをきっかけに、歯車修理と製作が本業となった。
平成15年、父親の故耕一さんから経営を引き継いだ。創業時は、愛知県三河地方の繊維機械メーカー向けの歯車製作が中心だった。現在は建設機械や産業用ロボット、航空機メーカーなどの需要に応える精度の高い歯車をつくる。岐阜、兵庫、神奈川県に事業を拡大している。
朝日町で、4人きょうだいの末っ子で長男として生まれた。母は、県外から就職してきた従業員らが生活する独身寮で、食事の世話や体調を気遣うなど、親代わりとなっていつも忙しく働いていた。子どものころは、たまの休みに家族6人水入らずで外食をするのが一番の楽しみだった。
朝日小、明和中(現川越中)から、四日市高校に進んだ。「高校時代はヨット部に所属し、2年生の時、東海大会に出場できた。今、思うと厳しい練習も貴重な経験だった」と振り返る。父から「家業を継いでくれ」と言われたことはなかったが、一人息子でもあり暗黙の了解があったのか、進路を理数系に定めた。
共通一次試験の当日、いつ参拝してくれたのか、頭之宮四方神社の合格祈願のお守りと鉛筆を渡してくれた無口な父の応援がうれしかった。京都大学に入学し、工学部機械学科で学ぶ傍ら、ボディビル部で体を鍛え、全日本学生ボディビル選手権出場を果たした。「予選敗退という結果だったが、スポーツに打ち込み、仲間との絆を深め合った学生時代だった」と懐かしむ。
卒業後は、父の勧めで千葉県の日立精機に就職。工作機械をコンピューター制御するソフトの開発に4年間携わった後、平成元年に朝日歯車製作所に入社した。現場で歯車製作の技術を覚えることから始め、事務、営業と全ての業務を経験した。
事務の研修中には、日常業務にパソコンの導入を提案し、給与計算や受注管理の作業効率を飛躍的にアップさせた。平成8年、体調を崩した父に代わって社長の役目を果たすようになった。同15年、相談役に退いた父の跡を継いで、正式に社長に就任した。
発注元と製造元、下請けの3社が信頼関係を築き、共に努力して栄えていこうという祖父の精神の下、60人の従業員一人一人がプロ意識を持って作業に当たっている。
父は「働けるうちは現役、年齢より実力を重視すること」をモットーとし、定年の60歳をすぎても希望する全員の再雇用を決めた。現在78歳を最年長に70代の7人が「慣れた仕事を続けられてうれしい」「仕事のおかげで元気」と、若手従業員らの手本となって働き、培ってきた知識や経験、知恵を伝授している。
平成24年、長年、二人三脚でやってきた父が84歳で亡くなった。「祖父と父の遺志を胸に刻み、基本に戻って足場を見直し、より一層、精進していきたい」と決意を語った。
略歴:昭和37年生まれ。同60年京都大学工学部機械学科卒業。平成14年四日市青年会議所理事長就任。同年四日市法人会明和ブロック副会長就任。同24年四日市納税貯蓄組合副会長就任。