四日市市北浜田町のぷらいむは、エステティックサロン経営のほか、化粧品や美容品の企画開発などをしている。エステティックサロンは、東海三県や大阪市内に21の直営店を持つ。昭和50年現会長で父親の透さん(77)が設立した。平成9年中部商事から社名変更。
「リーダーとしての自分の役割について、常に考えている」と話す。
3人きょうだいの長男。父親の仕事の都合で、子どもの頃は何度か引っ越しを経験した。小学校と中学校の一時期は尾鷲で過ごした。「友達に漁師の息子がいて、たまに早朝から漁船で養殖いけすの上に降ろしてもらい、いけすの外の魚を釣るのが楽しかった」と懐かしそうに振り返る。
中2の時に四日市へ転居し、その後鈴鹿へ移り住んだ。活発でにぎやかな性格だったが、「けんかが弱くて悔しい思いをしたこともある」と打ち明ける。
高校へ進学したものの、「自由になりたい」と2年で中退。料理店で住み込みで働くなどしていたが、人出不足から父親の仕事を手伝うようになり、18歳で中部商事に入社した。
当時は化粧品などの訪問販売事業をしており、セールスレディーのマネジメント業務を担当。結果を出すために一生懸命頑張ったことが認められ、21歳の時所長になった。
「仕事なら勝てるかも」。長年、自分に自信が持てず、中途半端な状態に煮詰まっていたが、仕事を始めたことで、新しい自分を発見した。責任ある重役に、ストレスで円形脱毛症にもなったが、それでもやりがいの方が大きかった。
25歳の時、エステ事業に参入。半年ほど技術を身に付けた後、現場管理を任された。2店舗目までは順調に軌道に乗せたが、3店舗目は負債を抱えて倒産。「てんぐになっていた。自分一人でうまくできると過信していた」
自己嫌悪で一時は「死にたい」と思うほど落ち込んだが、本社に戻り周囲が温かく迎えてくれ、支えになってくれたことで立ち直ることができた。「人を大事にすることを忘れていた」
この時から「リーダーとしてのあり方」に興味を持ち始め、歴史上の成功者たちの本を読みあさるようになった。コミュニケーションの重要性、相手の話をちゃんと聞いて気持ちを理解すること―など、学ぶことは多く、これまでの反省とともに数々の教訓を生かしながら、現在まで着実に店舗数を増やしている。
社長就任後は、社員教育にも力を注いできた。「リーダーの役割は、上司として部下を勝てる気にさせること」と笑う。「いかに相手のやる気を引き出すか」が腕の見せどころ。「女性中心の職場なので、女性が働きやすい環境づくりにも積極的に取り組んでいる」
いつも陰で支えてくれる父親の存在は大きい。どんな時も温かく受け入れてくれた。「絶対自分を応援してくれる一番の理解者」と、強い信頼は揺るがない。
これからも父の背中を追い掛けながら、リーダーとして全力で未来に挑む。
略歴:昭和36年生まれ。鈴鹿市出身。同54年中部商事入社、平成12年代表取締役社長就任。特別養護老人ホーム多気彩幸理事、ケアハウス伊勢度会彩幸理事など。