三重県鈴鹿市東玉垣町の「ヤマザキファーム」は昭和38年に父の故俊一さんが創業した「山﨑畜産」が前身。自社で肥育したブタと、周辺の養豚農家40軒ほどから買い取ったブタを食肉処理場で処理した後、枝肉を北中勢地区の肉専門店に卸していた。
平成16年に父から経営を引き継ぎ、「ヤマザキファーム」と社名を変更した。養豚農家の減少で需要に応えられなくなり、周辺の土地を購入して規模拡大を図り、肥育頭数をそれまでの倍以上になる1000頭に増やした。現在は2500頭を肥育して四日市畜産公社に出荷し、公社を通して県内を中心に関東にも流通している。
年間に出荷する4500頭の内、800頭ほどは「幻泉山﨑豚」「作豚」のブランド肉として自社直売場とJA果菜彩、マックスバリュなどで販売している。
「幻泉山﨑豚」は県初となる鈴鹿の天然温泉水で育てた臭みの少ない柔らかい肉質が特徴で、市内の小中学校の給食にも使われている。「作豚」は、鈴鹿の銘酒「作」の酒かすを幻泉山﨑豚の中から選りすぐったブタにだけ与え、甘い脂身とうま味が長く楽しめる最高級の豚肉に仕上げている。いずれも鈴鹿ブランド認定に加え、「幻泉山﨑豚」はフード・アクション・ニッポン・アワード入賞、「作豚」はみえの食セレクションにも認定され、贈答品としても高い人気を得ている。
鈴鹿市で3人きょうだいの長男として生まれた。両親は忙しく、幼少時はおじいちゃんっ子で、何をするのも祖父と一緒だった。小5の時、市の水泳大会に出場して2種目で優勝を果たし、祖父を喜ばせた。中学からはラグビーに打ち込み、東海大会に進んだ。
父に跡を継げと言われたことはなかったが、家業を継ぐことが自然に思え、四日市農芸高の農業科畜産コースを選んで進学した。勉学の傍らラグビーも続け、3年の時には県大会でベスト4の成績を残した。
「畜産業は年中無休の仕事。1度は社会に出てみろ」という父の言葉に従って、「東京シート(現TSテック)」に入社し、車両シートの製造ラインで働き始めた。夏の休日には伊勢の海でサーフィン、冬場は長野の山でスキーを楽しんだ。会社員生活を1年半経験し、家業に入社した。
早朝5時と午後3時の給餌、その合間に豚舎の掃除、食肉処理場にブタを運んで、枝肉になるのを待って肉専門店に届ける仕事、学校給食の残りかす回収などの仕事に追われ、1日があっという間に過ぎる休日のない畜産業の生活が始まった。
平成6年ごろから徐々に機械化を進めた。常にブタが食べたいだけ与えられる自動給餌機の導入を手始めに、自動除糞装置、冬場はコンクリートの下にパイプを通して床暖房、夏場は食欲を落とさないように空調設備で体感温度を下げるなど、年間を通してより快適な環境づくりを心がけている。
「しゃぶしゃぶにしてもあくが出ない」「よその豚肉が食べられなくなった」などと、遠方から訪れるお客も多く、「給食で出た豚肉がおいしかった。家でも食べたい」と子どもに言われて直売場を訪れる母親も多い。「消費者の生の声を聞くことで、より一層安心安全でうまい肉の生産への意欲が湧いてくる」と話す。
長女麻由さん(37)は経理と広報を担当し、長男祐希さん(35)真梨子さん(35)夫妻は養豚場の責任者、次男亮さん(33)明希さん(33)夫妻は販売責任者を務めている。美容室を営む妻仁美さん(59)との生活だが、孫たち6人が毎日のように遊びにきてにぎやかな日々。「子どもたちが皆、家業に就いてくれてありがたい。結婚して40年、子育てと美容室経営を両立させ、作豚生産も妻のアイデアのおかげ、感謝しかない」と話す。
10年前から、鈴鹿げんき花火や旭化成さくら祭りなどのイベント会場で、自家製の豚唐揚げやミンチカツなどをキッチンカーで販売している。ピンクが目印のキッチンカーには、行く先々で行列ができる。4月初旬の鈴鹿F―1会場での初出店も予定している。
「コロナや戦争、円安などが大きく関わる安定しない仕事だが、衛生管理と豚熱の防疫体制を徹底しつつ、肥育頭数を増やしていきたい。近い将来、豚肉専門の料理店を開くことを視野に、社員、家族とともに精進したい」と目を輝かせた。
略歴:昭和38年生まれ。同56年県立四日市農芸高校卒業。同年「東京シート」入社。同58年「山﨑畜産」入社。平成16年「山﨑畜産」社長就任。同30年県畜産事業協同組合参事。令和元年法人化に伴い株式会社「ヤマザキファーム」に社名変更。同2年鈴鹿市養豚協議会会長就任。同4年県養豚協会、県畜産協会会長就任。
略歴: