三重県鈴鹿市西条の日舘建設は、義父の故英尚さんが農業の傍ら冬季従業員として勤務していた「日本舗道」から独立、同市深溝町で昭和40年に創業した。同52年に法人化し、平成8年に有限会社から株式会社に移行した。同15年に夫の故哲章さんが2代目を継ぎ、同30年に亡くなる直前の夫から経営を引き継いだ。
鈴鹿市内を中心に、傷んだ道路の修繕や補修、新設などの公共工事、企業やマンション、店舗などの駐車場新設などの民間工事を手がけている。しっかりと整備された道路は、交通事故の発生率を下げることができる。従業員14人と共に、全ての人が安全かつ快適に使える道路の施工を目指している。
高速道路につながる道路と歩道800メートルほどの新設工事では、4カ月の工期中のほとんどが打ち合わせや申請書類の作成・提出に費やされ、実際の現場工事は5日間だけの短期集中夜間工事だった。雨で水浸しになるとアスファルトが密着せず、乾くと割れてしまうので、天気予報をチェックしながらの施工だった。
前もって地域の企業や住民に工事日程を告知し、工事中は立て看板で通行止めや交互通行を掲示。道路を交互通行にしての作業には、すぐそばを車が通過するため危険が伴い、昼夜逆転で働く従業員らに細心の注意を払うよう現場で声かけをした。開通を祝うセレモニーで、県担当者から施工に携わった1社として発表され、採石業者からは「搬入路の整備がありがたかった」と感謝された。
また、通学路の舗装修繕中の従業員に、小学生の女児がスコップを持つ作業員の絵に「きれいにしてくれてありがとう」の言葉を添えた手紙を手渡してくれた。メッセージ入りの絵は従業員全員の心を温かくしてくれた。
鈴鹿市で3人きょうだいの長女として生まれた。変形性股関節脱臼で3歳までコルセットを装着していたが、幼稚園の頃には普通に通園できるようになった。白子小、鼓ヶ浦中から、高田高校に進学した。友人に誘われて剣道部に入部したが、どうしても汗臭い防具を着けるのがいやでマネジャーになった。「高田本山での合宿で30人分の大釜カレーを作り、皆で競争するように食べた。今でもカレーを見ると思い出す」と懐かしむ。
卒業後は、河芸町の「三重オンキョー」に入社し、ステレオスピーカーの部品チェックを担当した。単純な作業の繰り返しが物足りなくなり2年後に退職し、フリーターを経て「飯田建設」に再就職した。同社が催した下請け会社との懇親会で、夫となる哲章さんと出会った。スキーに誘われたことをきっかけに交際が始まり、1年後に結婚した。
日舘建設の経理を務めながら、義母幸子さん(82)の手助けのおかげで長男、長女、次男の子育てを両立してきた。平成15年、専務だった夫が義父から経営を引き継ぎ、バブル崩壊後の不景気が続く中、営業活動に力を注いで何とか業績を維持してきた。
平成25年、夫が体調を崩して入退院を繰り返すようになった。夫に安心して療養に専念してもらおうと、現場監督をはじめ従業員らが結束して作業に当たった。仕事が途切れないように、元請けとの連絡を密にとって次の仕事も受注してくれるようになった。
症状が悪化した夫は会社をたたむことを考えていたが、従業員や元請け会社、そして子どもたちのために日舘建設をなくしたくないと思い、義母の賛同を得て社長を継ぐ決意を固めた。「大丈夫か、無理はするなよ」と言ってくれた夫は翌月亡くなった。「一緒に頑張ろうと励ましてくれる頼もしい従業員に助けられながら、無我夢中の6年だった」と話す。
長女は独立し、次男は京都で大学に通っている。取締役として社のホームページ作成や広報を担当している長男と愛猫のなつめ(4歳、メス)とくう(4歳、オス)と楽しく暮らしている。「なつめとくうが長男との話題を広げ、居心地の良い家庭にしてくれる。また、高校時代から続けている茶道のお稽古が心やすらぐ場であり、充電できるひとときになっている」と目を細める。
若い従業員らのスキルアップを図るため資格取得を支援し、現場でも監督らがしっかりと技術習得のフォローをしている。また、働き方改革推進の一環として、現場に情報通信技術(ICT)を取り入れ、工程の効率化とともに工事の安全性向上にも役立てたいと考えている。「従業員一同、地域の方々により一層貢献できる現場づくりを目指していきたい」と意欲を語った。(岸)
略歴: 昭和44年生まれ。同62年高田高等学校卒業。同年「三重オンキョー」入社。平成3年「飯田建設」入社。同6年「日舘建設」入社。同29年「優良事業場賞」受賞。同30年「日舘建設」社長就任。令和4年県建設業協会女性部会幹事就任。
略歴: