-祖父の意志大切に 身も心もくつろげる場を- 「湯の山温泉 鹿の湯ホテル」社長 伊藤裕司さん

【「湯の山温泉全体を盛り上げていきたい」と話す伊藤さん=菰野町菰野で】

 菰野町菰野の「鹿の湯ホテル」は、祖父の故正雄さんが、御在所ロープウエーのオープンから3年目の昭和37年に創業した。湯の山温泉から鈴鹿山脈の主峰御在所岳山頂を結ぶ日本最大規模のロープウエーとあって、四季を通じて全国から多くの観光客が訪れ、当時30軒余りあった湯の山温泉の旅館街は大変なにぎわいだった。

 来年、創業60周年を迎える同ホテルは5階建てで客室30室、収容人数は150人。祖父亡き後は祖母の故千寿さんが継ぎ、3代目となった父の故正司さんを補佐しながら、バブル崩壊やリーマン・ショックなどの不況を乗り越えてきた。伊勢神宮式年遷宮が行われた平成25年頃から景気は大きく回復し始め、同27年に父から経営を任された。

 景気回復を機に、客室を露天風呂付やダイニングルーム付、大自然のパノラマを一望できる大きな窓付きなど、お客さまに湯の山の素晴らしさを満喫してもらうための大改装を行った。また、部屋食を廃して館内4カ所に食事処を作り、料理長らが地元の新鮮食材を中心に腕を振るっている。ミシュラン2つ星を獲得した会席料理は食通の宿泊客らを楽しませている。

 毎月訪れる年配のご夫婦は「泉質の良い温泉と季節ごとの創作料理に加え、スタッフの行き届いた対応も最高」、香港からの家族連れは「おいしい料理、露天風呂からの展望など全てが魅力」と、コロナ前までは毎年訪れていた。渓谷散策路やロープウエー乗降口に近いロケーションも喜ばれている。

 桑名市で3人きょうだいの長男として生まれた。両親はホテルの仕事で忙しく、幼少時は姉と弟の3人で過ごすことが多かった。小3からスポーツ少年団でソフトボールを始めた。中1で菰野町に移り住み、通い始めた菰野中学では柔道部に入部して練習に励み、3年生の時には主将として県大会出場を果たした。

 四日市南高校から東洋大法学部に進学。経営法学科で学ぶ傍ら、興味があったウインドサーフィン部に入った。風の力で海面を走る爽快感に魅せられ、仲間とともに関東選手権やインカレ、全国各地で開催される全日本大会などに向けて夢中で練習を重ねた。4年生の時、主将として挑んだ雑誌社主催の「フロムエーカップ」で個人優勝を果たした。「風をよむレースの経験から、瞬時の決断力の重要性を学んだ」と振り返る。

 卒業後は、同業他社で経験を積んでから家業に入ろうと「ヒルトン東京ベイ・ホテル」に入社。レストランで提供する料理に合うワインの知識を深め、コース料理を出すタイミングを厨房(ちゅうぼう)に的確に伝えるウエイターとして働き始めた。海外からの観光客も多く、語学の必要性を痛感して3年後に退社し、ワーキングホリデーを利用してオーストラリアで1年間語学留学をした。

 最初の半年間は西海岸の都市パースでホームステイをして語学学校に通い、夜は日本料理店で接客係として働き英語力を伸ばした。後半は豪州全土の街々を旅しながら現地の人々と交流したり、ウインドサーフィンを楽しんだりした。「短い期間だったが社交性が養われ、初対面の人とも親しく交流できるようになった」と話す。

 帰国後は家業に入社し、午前中はフロント業務、夜はナイトラウンジのバーテンダーとして働き始めた。翌年、明るい笑顔と細やかな心遣いで宿泊客にも従業員にも慕われていたおかみだった母が急逝した。元気で働く母の姿を当たり前のように見てきたが、亡くして初めて母の偉大さを実感したという。

 長女加奈波さん(23)、長男大賀さん(19)、次女花倫さん(18)の3人は東京で大学生活をしており、現在はおかみを務める妻寿美子さん(51)と2人暮らし。「子どもたちには、いろいろな事を経験してそれぞれが望む道に進んでほしい。頑張ってくれている妻には心からの『ありがとう』を伝えたい」。

 「良質の温泉と高台からの景色を楽しんでもらいたい」―。祖父の遺志を大切に、社員40人と心をひとつに癒やしの温泉と地産地消のおいしい創作料理、細やかな心遣いで身も心もゆったりとくつろげる場を提供し、お客さまに支持されるようなホテルを目指している。

 「昨年からのコロナ禍で、海外だけでなく国内からの宿泊者も激減する中、当ホテル1軒だけでなく地域の魅力を発信し続け、コロナ終息後は国内外からのお客さまをお迎えして湯の山温泉全体を盛り上げていきたい」と語った。

略歴: 昭和40年生まれ。同63年東洋大学法学部卒業。同年「ヒルトン東京ベイ・ホテル」入社。平成4年「鹿の湯ホテル」入社。平成18年湯の山温泉協会長、湯の山旅館組合長就任。同27年「鹿の湯ホテル」社長就任。