―100年企業を目指してぶれずに― 一般土木建築工事「株式会社西城組」社長  田端泰夫さん

【「100年企業を目指してぶれずに頑張りたい」と話す田端さん=鈴鹿市若松西】

三重県鈴鹿市若松西の「西城組」は昭和12年、故西城岩一さんが創業。平成18年、叔父の故西城治朗さんから3代目を引き継いだ。「感謝の心で仕事をさせていただく」ことをモットーに、道路、海洋土木、河川などの公共工事と宅地造成などの民間工事を手掛け、県内を中心に業績を伸ばしている。

以前、白子漁港に通じる掘切川護岸の基礎工事を手がけた。旧河川からの湧水や満・干潮時の潮位変化もあり難易度の高い工事だったが、半年間の工期中、けがや事故もなく完工できた。県土木担当者から、ねぎらいの言葉とともに高評価を受け、社員と協力会社の従業員らと喜びを分かち合った。

また、新名神高速道路鈴鹿スマートIC近くの工業団地造成工事を下請けとして2年間の工期で受注した。測量から既設道路の拡幅、新設道路の付け替え、排水路新設、用水工事、地盤成形工事までを、協力会社の力も借りてワンチームとなって工期内で終えることができた。冬場は道路が凍結するなど、作業が天候に左右されることが多かったが、区画整理組合や元請けの担当者から「きつい工程の中で立派にやっていただいた」と感謝された。

鈴鹿市で2人きょうだいの長男として生まれた。共働きの両親に代わって祖母が世話をしてくれた。いつもは優しい祖母だったが、悪いことをすると容赦なくげんこつが飛んできた。幼少時は友だちと近所の雑木林の木の上に秘密基地を作ったり、川で魚捕りをしたり活発な子どもだった。

足が速く、小学校のマラソン大会では負け知らずだった。中学で陸上部に入り、2年の時には2000メートル走で県大会に出場した。3年の春、事故で大けがを負い6カ月間の入院を余儀なくされた。復学後、勉強の遅れを取り戻せず、卒業後は手に職を付けようと四日市市の調理製菓専門学校に通うようになった。

調理全般を学んだが、特に中国料理に興味を持ち、卒業後は指導してくれた中国人シェフが料理長を務める名鉄グランドホテル内のレストラン「鳳凰」で修行を始め、2年後、将来は自分の店を持とうと四日市市の中華レストランで働くようになった。

そんな時、西城組を経営している叔父から「うちで働かないか」と誘われた。いつも話を聞いてくれる一番の理解者だった叔母と、両親の勧めもあって料理人の道をあきらめ、入社を決意した。

先輩社員らの指導で現場仕事から始めた。慣れない作業で先輩から叱責を受けることも多かったが、歯を食いしばって耐え、仕事を覚えていった。その傍ら重機免許や2級・1級土木施工管理技士の資格を取得した。少しずつ土木の仕事が面白く感じられるようになった。30代半ばで現場を任されるようになり、40歳からは現場監督として指示をするようになった。

48歳の時、「70歳で引退する」が口癖だった叔父から「お前に任せる」と言われ、経営を引き継いだ。14人の社員を抱えるトップとして、いかに実績を上げようかと考え、これまでの公共工事中心から、民間工事にも力を入れようと決めた。不動産業者や設計事務所などに営業回りを開始し、親交を深めるうちに仕事の紹介をもらえるようになった。現在は公共工事と民間工事の割合が6対4ほどになり、業績は右肩上がりとなった。

長女、長男はそれぞれ独立し、母一枝さん(92)と妻ちづるさん(64)、10歳の愛犬ティアラ(トイプードル、メス)との生活。「畑で丹精した野菜を近所に配るほど元気な母と、経理を担当して公私両面で支えてくれる妻に感謝です。ティアラを膝に、妻と晩酌を楽しむのが最高のくつろぎタイム。また、専門学校で土木を学んでいる孫娘の将来が楽しみです」と話す。

「土木は自然が相手、困難を乗り越えて図面通りにやり遂げた時の達成感を味わえる仕事です。創業から80年余り、まずは100年企業を目指してぶれずに頑張りたい。働き方改革を推進しつつ、学校訪問や求人サイトを通じて、会社を盛り上げてくれる若い人材に土木業の奥深さや楽しさをアピールしたい」と熱く語った。(岸)

略歴: 昭和33年生まれ。同50年古川学園中部調理製菓専門学校卒業。同年名鉄グランドホテル内「鳳凰」入社。同54年「西城組」入社。平成18年「西城組」社長就任。同30年県建設業協会鈴鹿支部支部長就任。

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