’99  祇園に息づく伊勢の文化

 皆さま、新年あけましておめでとうございます。
昨年は一昨年に引き続き不安と混乱に満ちた一年でありました。しかも経済危機それ自体が、年初から予期されていて、実現していき、その間政府の打つ対策が具体的な効果を上げなかった一年であったようです。

 東海地方は日本の中ではまだましな方で、日本の各地では北海道、東北、関東、九州の各地区で、猛烈なる倒産、失業、自殺の嵐(あらし)が吹き荒れています。無風地帯にある、公務員に民間からの批判が強まり始めた年でもあります。今年も多難な一年であろう事は明白であります。

 元旦に当たりまして、悲憤慷慨(ひふんこうがい)の文を避けて、京都・祇園の話でもさせて頂きます。もとよりご承知の通りの朴念仁である私の任ではありませんが、ひそかに通って見える方々から見ればご承知の通りの話です。読者の皆さまもご笑覧くださり、しかる後、不況対策の何かの足しにして頂ければ幸いです。

 昨年、大手商社に勤める友人に頼まれ、海外からの賓客をもてなすお手伝いをすることになりました。スケジュールの都合で京都で一席もつということになり、京都に住むTという友人に相談し、祇園甲部のお茶屋さんである一力亭を予約してもらいました。「この建物は前の戦の後の火事で燃えた後に建てたものどすさかい、百三十年しかたってまへん」と、出迎えてくれた十三代目のおかみさんにこともなげに言われ、百二十周年を迎えた伊勢新聞の三十六代目の社長である私との掛け合い漫才みたいな話は以下の通りです。

「前の戦とは何ですか。応仁の乱ですか」。
「いえいえ、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)どす」。

 御所に大砲を打ちかけた長州兵に応戦した薩摩軍の大将・西郷隆盛が後に起こした西南の役の翌年に弊紙は誕生しています。海外からのお客さまたちは、当然のことながら夫人同伴でありましたが、首まで白塗りの芸妓(げいこ)さんや、舞妓(まいこ)さんにたいそう驚かれたようでした。

 かつてはろうそくしか明かりが無かったから、ほの暗い灯火の下で、一番映えるように工夫を凝らした化粧がこうなったと説明を受けました。電気の無い時代の座敷を思うために、電灯を消してみましたところ、ライターの火に照らされた芸妓さんは妖しくも美しく見えました。芸妓さんと遊ぶには異例の八人という大人数の私たちに、舞妓さん地方さんを合わせて九人の美しい女性たちがもてなしてくれました。

 すっかりくつろがれた海外からのお客さまの中には日系二世の方もお見えで、日本語はおできにならないのですが、お母さまが昔歌ってくれた歌を聴きたいとおっしゃられました。地方さんの三味線の下、皆で歌った最初の歌が「荒城の月」、次に歌ったのが「故郷」でした。大変喜ばれて、次に美空ひばりの歌が聴きたいと所望されました。その歌がなんという歌か分からなくて困りました。「悲しき口笛」でもない、「りんご追分」でもない、といった具合でほとほと困ってしまい、芸妓さんの踊りを見せてもらっていました。ところがどうしても美空ひばりのその歌が聴きたいと仰るのです。

 そこまで望まれるなら突き止めてみようということになり、芸妓さんに歌詞の片鱗(へんりん)でも覚えてないか尋ねさせたところ、「都へ来てから」「鯨釣れた」というフレーズが浮かび上がってきました。「南国土佐を後にして」だ。

 美空ひばりでなくペギー葉山だ、とようやく分かりました。老妓の三味線に合わせて十九歳の舞妓さんから二十八歳の芸妓さんや一座の者が歌い、お客さまはこの上ない喜びようでした。「これが芸者遊びですか。素晴らしい。フジヤマ、ゲイシャガールと海外でよく言われますが、言っている外国人たちもだれもこういう遊びだとは知らないで言っているのですね」と、二十年以上海外に在住している日本人の方がおっしゃいました。忠臣蔵の話が出ていたときのことです。と言いますのも、本来は大石内蔵介らが切腹してから3百年に当たるからです。

 日本語と英語とスペイン語が飛び交じって、赤穂浪士の件を説明したのです。「日本人が最も好むリベンジストーリー(復讐物語)である。なぜか不況になると特に受ける。だから九九年にNHKが連続ドラマで放映する」といった具合に。「大石内蔵介は一年三百六十五日ここに流連(いつづけ)してガバメント(政府)や吉良家のスパイを欺いた」と話しましたところ、「こんなにいいことろが本国にあれば、私だって毎日通うよ」とおっしゃった方もありました。

 討ち入りの後、切腹までの間、大石らはある大名に預けられました。そこへ一力の主人は大石が好んだ葛饅頭(くずまんじゅう)を届けています。今も当茶屋には内蔵介の自筆の礼状が残されており、おかみの厚意で私たちは拝見することが出来ました。和紙に墨というのは本当に耐久性があるものだと感心もしましたし、流麗なる達筆にも心打たれました。

 内蔵介が、ある意味では放蕩(ほうとう)の限りを尽くし、酒で胃がおかしくなり、「もう何も食いとうない、飲みとうない」となったとき口に入れたのが、ぶぶ漬けであり、葛饅頭であったのではないでしょうか。「二日酔いの後よく食べはった葛饅頭を、江戸の地で切腹数日前に召し上がった大石はんはどんなお気持ちしはったでっしゃろかなー」と、やわらかい京言葉で語るこの上なく美しい舞妓に、海外からの客人は感動して「素晴らしい」という感嘆の言葉となったのです。

 当夜居合わせたものが再会することは難しいことは、旅の習いとして暗黙のうちに全員が知っているからこそであります。祇園甲部という地域というか郭(くるわ)にだけ伝わる踊りが井上流です。この踊りのルーツは伊勢市にあるのです。

 明治維新により東京遷都の後、京都は寂れてしまいました。今の日本みたいになっていたのではないかと思われます。京都を復興するため、時の槙村知事は、一力の九代目、杉浦次郎右衛門と祇園新地の舞いの師匠であった片山春子(三世井上八千代)と計って「都をどり」を創設したといいます(明冶五年)。これは伊勢古市の亀の子をどりにヒントを得て能の踊りも取り入れてつくられたようです。槙村知事は京都博覧会を開催してもおります。すべて京都復興のためであります。なかなかの方だったようです。

 以上めでたいお正月ということでお許しをいただき、祇園のことなどを述べさせていただきました。悩み多き新春ではありますが、元禄の昔に思いをはせてしばしの安らぎにして頂ければ幸甚です。