読書をすると馬鹿になる?

読書は社会人、なかんずく新聞人にとって、必須のことでありますが、読書しすぎると危険であります。大まかに言うと四つの危険があります。

一、本の世界と現実の世界の区別がつかなくなる。
二、本に記載されていることは往々にして与条件を単純化している。
三、著者が世間知らずのピントはずれ学者であることも多い。労働経験が無い
四、各種の本を読み漁っていると、自分の考えが持てなくなる。

 二、を補足すると、たとえば世界の国民に最も影響を与える経済現象は予測不可能なのが実情です。永く経済学はサイエンスでないとされ、ノーベル賞の対象ではありませんでした。

 経済予測が難しいのは、経済現象が複雑すぎるからです。経済現象に影響を及ぼす要因は無数にあり、すべてを考慮することはできません。

 経済現象に影響を及ぼす要因は、金利、選挙結果、異常気象、災害、感染症の流行、主要国の政変、国際紛争、テロ、有力政治家の死、画期的発明、証券取引所のコンピュータの異常、害虫の異常発生、(阪神の優勝)など数え切れません。

 これらをすべて考慮した予測など、できるわけがありません。天気予報と経済予測は当たらない、(予測不可能)というのが暗黙の了解事項なのです。

 だから、経済予測(天気予報)がはずれても誰も損害賠償訴訟を提起しないのです。

(訴訟しても敗訴するでしょう。昔から信憑性の薄いということを知らない原告に責ありとかの判決が予想されます)

ノーベル経済学賞受賞者が二人参加した米国のヘッジファンドが破産したときも、ノーベル賞を返上しろとは言われませんでした。(北京オリンピックのハンマー投げと、えらい違いです)

 こんな誰にも信用されていない学問のエキスパートである学者を、諮問委員にして、経済政策から、消費税値上げ、はては中部セントレア空港フエリーの採算可能性を答申させるのです。

バッカジャナカロッカとつぶやきたくなります。

 四について補足しますと、まったく反対の論が展開されている本を同時に読み終えると、没入して読んでいればいるほど、精神分裂の様相を呈する恐れがある。

(試みに、「地球温暖化の危機」という題名の書籍と「地球温暖化説のうそ」と名付けた本を読破することを考えてみてください)

 環境破壊に警鐘を乱打する環境擁護の書籍がベストセラーになると、森林を切り倒されて、書籍の紙を作るパルプの原料になります。

 環境保護派の著作者は一定部数以上の増刷を拒否するべきではないでしょうか、他人に資源の節約を説く前に。

 読書は必要だが、読んでばかりいるだけでは百害あって一利なしの状態に陥ることは、小泉信三氏の「読書論」にも警告されています。

 脳科学者茂木健一郎博士による「脳を生かす仕事術」を読んで、博士もこのジレンマに悩んでいたことが理解できました。

 それは、「何がよいか」はわかっているのに、いざ自分でやろうとすると「再現できない」というギャップです。

 読書すればするほど、論理構成・文章表現術に通じ、切れ味鋭い構成、美しい文章、わかりやすい文章への理解が深まります。

しかしそんな論文や文章を自分が書くことが可能かというと、まったく別問題なのです。博士もこれで悩んだ経験を述懐していて、共感できます。

 読めば読むほど、実践の時間が減るのですから、文章は書けません。

 ロココ調の絵画手法に通じていても、ロココ調の絵を描くことは評論家には至難のことだと言えば、ご理解いただけるでしょうか。

 茂木博士の専門分野の用語を使ってみますと、「脳の『感覚系学習の回路』と『運動系学習の回路』に秘密が隠されている。」ということのようです。

 読書の結果「何がいいものか」わかるようになったのは、感覚系が発達したからです。しかし「実現できない」のは、感覚系に対して運動系の発達が遅れているからなのです。

 逆にいえば、運動系を上手に鍛えていけば、アウトプットを自分がよいと思うものに近づけられるわけです。

 取材しても、思うように記事が書けない記者、思うようにイラストが描けない意匠係、思うように成績が上がらない営業マン、すべては実戦の量稽古(りょうげいこ)の回数が足らないのです。

 上達するには実践の回数を増やすしかありません。見込み客訪問しかありません。(エアコンの効いた社内で電話していても、成果は上がり難いのです)

 茂木博士は言います。「脳は何のために存在するのでしょうか。それは生きるためです。ただし、生きるといっても、無目的に漠然と人生を費やすことではありません。」

 「生きるとは仕事を含めて、自分の人生を通して「生命の輝きを放つことなのです」