本木昌造という偉人がいた (2004.2.8~18)

 東京都文京区水道にある印刷博物館に行きました。
2月13日までの「活字文明開化ー本木昌造が築いた近代」展を見るためです。

 鎖国していた江戸時代、日本で唯一世界の情報が入ってきた場所があります。長崎の出島ですね。
そこでは長崎通詞という特殊な頭脳労働集団が、語学の通訳だけではなく、書物の翻訳を通じて西欧諸科学の吸収にも務めていたようです。

 本木昌造は日米和親条約交渉の通詞(通訳)を行いました。
昌造のサインは条約書にも残っているそうです。この経験が彼の目を広い世界に向けたのでしょう。

 1855年、ロシア船の造船事業の検分役を果たす。
という事跡からも、彼が書物上の学問として西洋文明を捉えたのでなく、文明によりつくられる機械装置に興味を持ち実践したようです。

  今流に言うとエンジニアの道に興味を持ち粘り強く実践し続け、結果として大なる功績を後世の日本人に及ぼしてくれました。
昌造らの勧めで幕府は長崎海軍伝習所を1855年に設置します。ここで通詞を任されたことが彼を大きく成長させたのは間違いありません。

 航海術、造船、数学、機械学、銃砲術などが、近代的教育法で教えられたのですから。

~ 情報人・本木昌造の集中したもの ~

 本木昌造は、ペリー来訪による開国要求に慌てふためく江戸幕府に献策して次のことを実現させます。

 長崎海軍伝習所の開設。
造船所の設置。
長崎製鉄所の建設。活版伝習所も付属していた。
長崎新聞の発刊。

 この造船所が後に三菱重工長崎造船所となり現在にまで至っています。
弟子の平野富二らは東京築地活版印刷所を設立します。

 このころ本木らの指導で設立された石川島造船所は、後の石川島播磨造船となり、IHIとして現在に至っています。

 彼はまた外国の文書を翻訳する部署を幕府内につくることを勧め、実現したものは後に東京大学となっています。

 通訳は江戸時代にも警戒された仕事でした。
「国家の栄誉・自由・利益に関してもっとも危険な者」との酷評もありました。江戸のことわざに「大通詞の台所」と言うほど、彼らが私服を肥やし豪勢な生活をしていたことも事実であろう、と書かれています。

 現代でいいますと、アメリカではこうだと言う大学教授あがりの大臣やエコノミストでしょうか。そのくせ彼らは小商いもしたことがないのに、景気回復の方法を横文字交じりの理屈で弁じて止みませんね。

 さて本木の最大の業績であり、彼が日本のグーテンベルグと称されるゆえんである活字鋳造に触れねばなりません。

 アルフアベットの26文字の活字鋳造は簡単です。漢字の画数の多い文字の鋳造は困難です。20年余の苦闘の末、上海にいる 米国人ガンブルにより、電胎法により金属活字の製作に成功したのでした。
いわゆる「本木活字」です。今日の私たちが恩恵をこうむっている明朝活字も、本木の功績が大であるそうです。

 印刷博物館の展示は13日本日限りです。
この博物館の展示で特筆して申し上げておきますと、来場者に短時間に理解してもらおうとする創意・努力が会場の各所に見受けられたことです。

 本木の事跡を紹介するビデオ上映の際、袴をつけて、編み上げ革短靴という当時の服装をした女性が講談調で、上映の合間に、張り扇は無かったですが、大音声で聴衆に語りかけるなどのプレゼンテーションがありました。

 昨今の美術展等では、展示とビデオの設置のみと言うケースが多いので感じ入りました。
早川浩氏という印刷博物館研究員の眼光が光っているのでしょうか。
この文は「活字文明開化」という図録にすべて拠っています。勝手な引用をご容赦ください。
初めて訪問した開館3周年となる印刷博物館は興味深かったです。お台場の科学未来館に、どうしても行かなければならなかったので辞去しましたがもっと居たかったです。
製本・装丁についてのコーナーもあるのです。

 50年から100年印刷博物館を継続すればとても貴重なコレクションになる予感がします。早稲田大学演劇博物館のように。

~ 幕末・明治人の気概 活版スルハめでぃあナリ ~

 本木昌造は次の言葉を残しています。

「船ツクルハ産業ナリ」
「橋カケルハいんふらナリ」
「活版スルハめでぃあナリ」
「翻訳スルハ理念ナリ」
「国ツクルハ教育ナリ」

 幕末・明治の激動期に困難・苦難もあったでしょうし、命を狙われることもあったことは想像に難くありません。

 清清しい(すがすがしい)気概を感じるのは私だけでしょうか。
己の欲得とは別の世界観がそこには存在しています。