’01  文天祥の志

 皆様、新年おめでとうございます。
二十世紀が終わり、二十一世紀の初日にこの拙文をご覧になって頂くのは光栄の至りでございます。読者の皆様に感謝いたします。

 二十世紀は人類の歴史において特別な時代だったといわれています。つまり人間のあり方がこれほど劇的に激しく変化した時代を、人類は経験してきませんでした。しかもその変化が加速度的に進行し、今も加速度がついて変化し続けている最中です。人間の歴史を活動総量の累積史としてみるなら、人類史の大半は二十世紀において営まれたという識者もいます。人口は二十世紀になって飛躍的に増えました。

 エネルギー消費量も二十世紀に爆発的に増大したのは周知の通りです。科学、技術、産業活動が爆発的に発展を遂げたのも二十世紀であります。私達の科学的知識の肝要な部分はほとんど二十世紀になってわかったものです。
以上の如き二十世紀が人類にどれだけの幸福をもたらしたかというと、首をかしげる皆様も多々あるのではないでしょうか。二度にわたる大戦がありました。共産主義という実験国家で大量虐殺が、政治犯という名の下で、人民の敵と呼ばれ、行われました。

 スターリンは二千万人以上の殺害に責任があり、毛沢東は四千万人以上の死亡に責任があるようです。ギネスブックの虐殺記録の両横綱であることは間違いないようです。宗教紛争による大量殺人も、しばしば報道されました。しかしながら、文明の進歩は人類に恩恵ももたらしました。

 飢えへの恐怖からの解放、貧困からの解放は先進国において顕著です。その波は発展途上国へも及びつつあります。
二十一世紀に一歩踏み出した私たち日本人が抱えているもの、それは「漠然とした不安」でありましょう。博報堂生活総合研究所の首都圏・阪神圏の二千人アンケート調査である「生活定点2000」は二十歳から六十九歳までの男女個人の調査結果を卓抜なキャッチコピーで表現しています。いわく「トンネルを抜けたら濃霧だった」「ガラガラと、信じていたものが崩れていく」「つかまるものがありません」「おじさんは泣きたいのだ」と。

 一九九九年の自殺者は三万三千四十八人に及びました。その二五%が五十代であります。負債や失業など「経済・生活問題」を苦にした働き盛りの三十―五十代の自殺が増え続けており、長引く不況とそれに伴うリストラなどの影響が一層深刻化していることが反映されています。しかしながら注目すべき点は、男女別で見ますと、男性が二・二%増の二万三千五百十二人であるのに対し、女性が三・二%減の九千五百三十六人であることです。女性は適応力があるといいますが、家庭内暴力にもかかわらず、うつ病にも克つたくましさが備わっているようです。このあたりに日本再生の一つのカギもあるようです。

 弊社の応接室には時折、三上卓氏の自筆の「青年日本之歌」が掲げられます。
昭和五年於佐世保軍港一夜慨然作之時年二四歳 と添え書きされた額には次の如き漢詩が墨書されています。「汨羅(べきら)の渕(ふち)に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く」で始まる詩は「権門上に矯(おご)れども国を憂れうる誠なく 財閥富を誇れども社稷を念ふ心なし」とつながり、なんとまあ七十年前も今も変わらぬ世相かと考えさせられ、「ああ人栄え国滅ぶ 盲いたる民(めしいたるたみ)世に踊る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり」は前社長もよく口ずさんだところです。三上氏は南宋最後の状元である宰相文天祥の「正気の歌」にちなんでこの歌を作られたわけです。

 「日本で長い間中国史の教科書として使われてきた「十八史略」はこの南宋の最後のところで終わっている。そしてそこがまた素晴らしい名文である。おそらくこれが読者に、中国の歴史の華やかな部分はもう終わった、これからは夷てきの侵入の下に置かれた末期的な中国に過ぎない、というような印象を与えずにはおかなかったであろう」(宮崎市定『南宋の滅亡』より)昭和七年三上氏等は5・15事件を起こして犬飼毅首相らを暗殺しました。

 昨年十月に横浜で行われた日本新聞大会のパーティーの席上で、共同通信社の前社長犬飼康彦氏のお話を伺うことができました。「事件のとき、僕も官邸にいたんだよ。あの日は、ばあさんが出かけてて、祖父さんが一人だからみんなで食事しましょうていうことで、食事して一息ついてたら、「兵隊が侵入してきました、逃げて下さい」て書生が飛び込んできたらしいね。こっちは当時四歳だから何も覚えてないですよ。みんな後で聞いた話ですよ。逃げたって間に合わんだろて祖父さんが言ってたら兵隊が入ってきたんだ」という風にお孫さんの話は歴史の証言として興味深いですが、紙数の関係で後の機会に報告させて頂きます。犬飼康彦氏に三上卓氏の書があることを申し上げたら大変興味を示され「三上さんに何の恨みも無い。

 それぞれ路線の違いこそあれ、日本国のため、日本国民のためと信じて懸命だったのです」とおっしゃられました。三上卓氏の理論的指導者は水戸市の農本主義者、橘孝三郎(たちばな・こうざぶろう)でした。前社長は橘孝三郎の門下生でした。小生も十九歳のころ、水戸市の橘邸まで、父親のお供でお邪魔したことがあります。戦前は門弟千人がいたそうですが、昭和四十四年当時も鉄筋コンクリート造りの立派な離れで執筆活動を行っていました。その橘孝三郎氏の孫にあたるのが文藝春秋社等で活躍している立花隆氏であります。政治家犬養毅は孫文から書簡を受け取り、道途上にある辛亥革命への日本の援助を要請されています。その内容は大正十三年十一月に神戸女学院において行われた以下の有名な演説と同様でありました。

 「今後、日本は世界の文化に対して、西洋覇道の狗(いぬ)となるか、あるいは東洋王道を守る干城(かんじょう・タテ シロ)となるか、日本民族として慎重に考慮すべきである」私たち日本人が、中国文化とか中国らしいという文物はすべて宋代までの漢民族の文化であるものがほとんどです。文天祥は科挙の中でも稀に見る秀才にしか与えられぬ状元に抜擢され、その殊遇にかんげきして一身を国のために投げ出しました。

 彼の才能を惜しんだフビライ・ハンは何度も帰順を勧めましたが、「国滅びて何の顔(かんばせ)あって生きられん」と応じずついに斬られました。学校秀才では日本の大蔵官僚も人後におちないと信じますが、文天祥の志はあるでしょうか。そこにこそ日本人の持つ不安を解消する道があるのではないでしょうか。