二〇〇三年十二月五日、ヘラルドコーポレーション(本社・名古屋市中区)は民事再生法の申し立てを名古屋地裁に行い、開始決定を受けました。
今回は、世界最高齢の富豪と称された中京地区の風雲児一族の巨大な足跡をたどって、
『 投資の方法、銀行とのつきあい方 』を考えてみたいと思います。
西の松下幸之助、東の古川為三郎と呼ばれた大富豪でありました。
二五〇億円を投じて開発した三重県四日市市のゴルフ場「グレイスヒルズカントリー倶楽部」の会員権が目標の半分しか売れず、借 入金の返済に行き詰まったのが破綻の引き金となったといわれています。負債総額は三〇〇億円です。
同社の主な業務は、ボウリング場、映画館、飲食店、洋菓子製造販売、ゴルフ場などレジャー事業でした。
これは後述しますが、創業者古川為三郎氏の辛酸をなめてくぐり抜けてきた事業経験からきています。
古川為三郎氏の名を高くした出来事のひとつが名古屋大学に図書館を寄付した際の美談でした。
昭和三十七年(一九六二年)のことです。為三郎氏に名古屋大学図書館建設費の寄付の依頼がありました。
建設に二億円を要し、その資金を寄付してほしいというものです。事業家の常として新規事業の拡大中で、為三郎氏といえども資金繰りは決して楽ではありません。
「一億円出すから後の半分は他の方から集めてくれ」と為三郎氏は告げたそうです。
当時の大学卒の初任給は一万五千円から二万円ぐらいのものでした。二億円といいますと今の二〇億円ぐらいの価値があったようです。
残りの一億円が集まる目算はあるはずがありません。図書館建設計画は中止になりそうでした。そのとき為三郎氏の妻、古川しまさんが「残りの一億円は私が出します」と申し出たのです。
しまさんは為三郎氏に渡されたお金を蓄え、株式や土地に投資して増やしていたのです。
圧倒された為三郎氏は「私は土地を売ってでも名古屋大学に二億円寄付するからお前の金はしまっておきなさい」と言って実行したそうです。
二年後一九六四年十月、東京オリンピックの熱狂と興奮の中、名古屋大学図書館は完成しました。古川為三郎・しま夫妻の名前が記されたプレートが掲げられて。
名古屋市千種区には財団法人古川会により古川美術館、為三郎記念館が残されています。
元愛知県知事鈴木礼治氏は、「名古屋デザイン博覧会にも億単位の寄付をしていただいた。資産家中の資産家だったのに、あれほどの資産のある会社が何故そんなに急に倒産しにゃならんのか非常に疑問だ」とマスコミに語っています。
為三郎氏は明治二十三年(一八九〇年)に愛知県一宮市に生まれ、十八歳で名古屋市矢場町(大須観音の近く)に古川商店を開きます。貴金属商として成功して大正六年(一九一七年)には東京神田馬喰町(ばくろうちょう)にまで店を出します。東京、大阪、京都、名古屋と資本主義の勃興期に縦横無尽に走り回っていたようです。また体が丈夫だったのも大成功の秘訣だったのでしょう。ついには銀座鳩居堂の一軒置いて隣にまで店を開く勢いでした。文字通り、銀座和光と覇を競ったのです。
大正九年(一九二〇年)の第一次大戦後の金融恐慌で、受け取っていた手形は紙くずとなります。
九州で大手財閥と組んでやっていた鉱山事業からも手を引き、「手形商売から現金商売へ」の転換を図ります。
現金決済の商売とは、食堂、遊技場、映画館でした。大須の映画館「太陽館」を買い取ったのを手始めに三年間で三つの映画館主となります。
まだ三十三歳でした。