一度目は悲劇、二度目は喜劇 鈴鹿前市長事件に思う ~権力と戦い120年~ (98.5)

 三重県民の皆さまのおかげで、本年一月十七日をもちまして伊勢新聞は百二十周年を迎えることができました。厚く御礼申し上げます。
伊勢新聞社の歴史は権力との戦いの歴史でもありました。明治十一年に創刊された本紙は折からの自由民権運動の中で、藩閥政治を批判し、弾圧を受け続けました。

 ちなみに、当時社説を書いていた陸義蕕は石川県人でした。彼は明治十一年五月十四日、大久保利通を暗殺した石川県人・島田一郎ら凶徒が、宮内庁へ自首したときに提出した斬奸状(ざんかんじょう)の起草者でした。凶行には関係していませんでしたが、三重県にあり伊勢新聞で筆をとり、現に暗殺事件のあった明治十一年五月二十二日・二十四日両日の社説欄に「忠告県官諸公」と題する一文を発表。このシリーズがピリオドを打たないうち捕らわれの身となりました。このころ既に伊勢新聞は一日おきに発行されていました。やがて裁判にかかり、彼は禁獄終身を言い渡されはしましたが、のち特赦を受け明治十七年に出獄しています。

 太平洋戦争前の軍国主義の時代にも、警察・軍部から大変な弾圧を受け続けました。「ペンが勝つか、サーベルが勝つかやってみるか」と脅された時代でした。当時は検閲とか発行停止等の処置をとれる時代でもありました。

 前鈴鹿市長A氏の憲法違反である言論弾圧事件につき、知り合いの弁護士さんたちから、「まだやっているの」と驚かれたことが昨年ありました。「まだ始まったばかりの段階である」と、私たちは考えています。憲法違反を侵してまで言論の自由を弾圧して、隠し通そうととした数々の疑惑はほとんど明らかになっていません。

 県下には六十九市町村があるのにいつまでもA氏ごときにかかずりあいになっているのも、いかがなことかとご忠告される識者もございます。確かに、A氏の巻き起こした疑惑は、薄汚くはあるが、最近辞任した前東大阪市長の疑惑と同様ありふれたものです。私たちが最も重要な問題だと考えますのは「報道の権力からの自由」を市長の権力を使って踏みにじったという「憲法違反」の犯罪の件です。

 「乱訴男」(鈴鹿市職員)と異名をとったほどA氏は自らを批判するものを告訴しまくりました。弊社だけでも数件の損害賠償請求の提訴を受けています。(後にすべて取り下げました)。提訴しておいて、脅かしておいて後に取り下げるという詐術であります。 こういう手法に屈しては百二十年間にわたり、三重県の物言わぬ、穏やかで、賢い民衆を守り続けた伊勢新聞社の先輩にも申し訳が立ちません。

 それにつけても、最近衆議院議員を辞職した細川護煕氏とA氏は、スケールの違いこそあれ、酷似しているように思われます。
当初は、世評も良かったにもかかわらず、いち早く経済界、公務職員、そして心ある側近からも見放された孤独な末路。日経新聞編集委員(当時)の田勢康弘氏は月刊文藝春秋に掲載した優れた論文「細川護煕最後の日々」の中でこう喝破しています。「細川政権が崩壊した理由は、(中略)『新たに判明した個人的な法的問題』などではない。政治のリーダーとしての資格の欠如が政権崩壊の最大の原因だと思わずにいられない」「細川がいかに捲土重来を期そうとしても、日本が再び細川を必要とする日が来るとは思えない。細川政権が単なる『個人的スキャンダル』で崩壊したのではなく、政治指導者としての資格欠如によるものだと考えるからである」。

 細川護煕氏から五月七日に私あてに来た辞任のあいさつの手紙には、権力の争奪に青バエが群がってぶんぶん飛び回っている様を『海南行』から引いて、

満室ノ蒼蝿(そうよう)掃(はら)エドモ尽クシ難シ
去リテ禅搨(ぜんとう)ヲ尋ネテ清風ニ臥セン

と示しています。禅搨とは禅寺の長いすのことです。
禅寺で寝起きしても悟らぬ場合は、どこを尋ねて臥したら良いのか、作者である将軍足利義満の菅領であった細川頼之氏に問うてみたい心地がします。

 再びA氏が公職に立つことが、万一あると考えるだけで恐ろしいものがあります(私は三重県民、鈴鹿市民の温和で穏やかではあるが、賢明な選択を常に信頼していますが)。田勢氏も引用していますように、マルクスの有名な言に「『一度目は悲劇として、二度目は喜劇として』歴史は繰り返すものだから」であります。

  却初より 作りいとなむ 殿堂に われも黄金(こがね)の 釘ひとつ打つ   与謝野晶子

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