著者の伊藤智義氏の経歴を簡単に記してみますとこうです。
1、東京都下の都立高校入学〈東大合格者が年に1人程度の平凡な公立高校〉
学年成績は中ぐらい。高校1年次に結核で入院 1年遅れ以後3年間学年トップの座が不動。
2、天文学・宇宙物理学に憧れて東大を受験するも落第 一浪して入学 2年遅れ
しかも3年次に振り分けられたのは理学部天文学科でなく、教養学部基礎科学第一であった。
(駒場における成績が平凡)
しかもそこに入るために優を増やすために留年をしている。3年遅れ
3、脱サラして始めた父親の経営する会社が倒産していて 猛烈に金への欲求がつのった伊藤は、
高校時代から週刊ヤングジャンプの懸賞「青年漫画大賞原作部門」を年2回応募し続けていた。
賞金100万円が魅力だったが、大賞を得ることはなかった。
それでも応募し続けた伊藤に、ヤングジャンプ編集部の一人が声をかけた。
「読みきり用の話を何か書いてみたら」「面白ければ使ってあげるよ」
それでうまれたのが「栄光なき天才たち」の原作であった。大学3年の5月に連載が始まった。
2回目の4年生をしていた(後述)ときの印税は900万円。翌年大学院1年生の時には1400万円を
超えた。 現在伊藤は国立大学教授の職にあるが、1000万円を超えてない。
(余談ですが、私も東京のラーメン屋の片隅でこの漫画を読んだ記憶があります。この原作者は理学部でも出た編集部員であろうと思っていました。理科系の人しか知らない、世に埋もれた不遇の学者を摘出していました)
4、大学4年生になった伊藤は都立高校の教師になろうとして、教員採用試験を受けたが面接で
不合格となった。大学院試験も終わっていた。行き場所のなくなった彼の選んだ道は、
彼の編み出していたビジネスモデル(?)である留年、であるのは無論。4年遅れ
5、「コンピュータをつくってみないか?」と再4年生の9月に大学院試験の筆記試験を終えた伊藤に
応募先研究室の杉本大一郎教授は言った。「伊藤君、きみ、合格しとったで」と京都大学出身の
湯川秀樹門下の杉本が告げた後の言葉である。(今ならたいへんな問題になるかもしれない。
続く面接試験を経て、翌年2月に東大大学院試験の合否は決定されるものだからだ。
杉本は翌10月に野辺山宇宙電波観測所に伊藤を同行させている。伊藤は留年したおかげで、
既に卒論は書き上げていた!
その時点で、伊藤はコンピュータの知識、プログラムの知識は皆無であった。PC9800すら
持っていなかった。(もちろん、杉本もコンピュータプログラムの知識は皆無であった。)
しかし志望する研究室の教授に言われたら、「嫌です」という言葉は言えない。
「やります」のひとことから、彼の4年遅れの凡人人生の大逆転劇が始まった。
閑話休題 筆者もこれまで白羽の矢を立てた社員たちに、いろんなプロジエクトをやってみないかと
声をかけました。
山形大学の城戸研究所に行って有機ELの試作品を作ってみないか。
ハワイに特許管理のための法人を設立してくれないか。等々
悉く、私には無理です。英語ができないからできません。などとのできない理由を並べられました。
できない理由を嬉しそうに並べ立てるけど、いったい全体こいつは「なにができます」というのだ、
と少し絶望的になったりもしました。(続く)