「戦争はしてはいけない」 − 赤塚幸子さん
【「戦争はどんなことがあってもしてはいけない」と話す赤塚さん=津市大谷町の自宅で】
「戦争はどんなことがあってもしてはいけない」と熱く語る。昭和20年。6歳の頃、名古屋市から津駅の近くに住む伯母の家に疎開した。毎晩寝る前には、新聞紙の上に靴を置き、枕元には翌日の着替えを着る順に置いておくことが習慣だった。「順番を間違えると、空襲の時に間に合わないから」
津駅に最初の爆弾が投下された日のことは、昨日のことのように鮮明に記憶している。「幼稚園に行くときに警報が出て、家の裏の防空壕(ごう)に逃げた。飛行機が2機、低空飛行してきた」
駅舎は壊れ、祖父が「小さい子どもを背負ったおばあさんが、子どもの首がないことにも気付かず必死に逃げていた」と話していたのを聞いた。近所のおじさんが、爆風で破片が背中に刺さっているのにも気付かず、体中真っ白になりながら、「床屋が死んだ」と話し、歩いている姿を見て、戦争の悲惨さを子ども心に痛感した。
その後、近くの山に避難。駅にいた人たちも同じように逃げてきたらしく、見知らぬ山形の人から真っ赤なサクランボを幾つかもらった。「あのサクランボの赤い色は今でも忘れられない。食糧難の時代だったから珍しくて、大切に食べた」と、懐かしそうに振り返る。
戦死した父親の実さんとは、写真館で家族写真を撮った記憶が最後となった。
69回目の終戦記念日を前に、「今は毎日が楽しい。いろんな人と巡り合えてとても幸せ」と静かにほほ笑んだ。