中学時代に三重県の選抜チームに選出された私は、県内の名門・四中工(三重県立四日市中央工業高等学校)に鳴り物入りで進学した。当時の四中工は夏のインターハイ連覇や、冬の全国高校サッカー選手権ベスト8以上の常連として全国に知れ渡る存在だった。
実際に四中工の練習に参加し始めたのは中学3年生の秋ごろだった。卒業式を終えた春休みには私と小倉隆史(元サッカー日本代表)の二人が四中工レギュラー陣の先輩達に混じり県外遠征にも帯同し、テレビで見たことのある県外の強豪校との対戦でも、体力・技術・スピードの点で違和感なくプレーできていたように記憶している。ここまでは「予想以上の出来」だった。
四中工でも十分に通用すると確信していた高校の入学直後、私は椎間板ヘルニアを発症し手術をすることになった。症状は、腰椎の一部が変形し神経を圧迫することで足の指先までが痺れるといった具合であった。この痺れのおかげでボールを全く蹴ることができず、歩行すら困難であった。
特に辛かったのが、夜寝ていて寝返りで突然痺れることだった。そんな状態を治すには出来るだけ早く手術するしかないと医者からは診断された。
術後一カ月で練習に参加した私の呼び名は「しなお2世」だった。肌が青っ白く細い(もやしのようにしなしなした)体の男で「しなお」。術後2週間をベッドの上で過ごしていた私の体は、同級生の中で一番痩せた体型の「しなお1世」と見分けがつかないほど筋肉が痩せ細っていた。練習に参加して同級生に指摘されるまで、自分の姿の変化に全く気付いていなっかたのだ。
同級生たちは肌が小麦色に日焼けし、中学校年代の練習量とは明らかに違うであろう量を経験したことが伺えるほど、自信に満ち溢れた表情をしていた。私のあまりに細い筋肉に比べて、同級生の鍛え上げられた足の筋肉がやけに輝いて見え、自分だけ取り残されたと感じたことを覚えている。そこで初めて、自分の体力・筋力がずいぶんと衰えていることを認識した。
ヘルニアを発症する以前の私の体は、体力測定でも同級生の中では優れていた方だった。全国から選ばれたメンバーの中でも、ボールを蹴る力や接触プレーで劣っていたと感じたことは一度もなかった。そんな体力自慢の私の体が、知らない間に理解もできないほど変化し、足の痺れは術前とあまり変化なく残っていた。
どれ位の期間で、何をすれば皆に追いつくことができるのか?全く分からない。当時は現在のようにトレーナーが復帰までのトレーニングプランを作成して指導してくれることはない。漠然とした不安を一人で抱えていた私は、サッカーも学校も辞めたいとまで考えるようになっていた。