オーストラリア戦から得られた教訓

 サッカー日本代表が、ロシアワールドカップアジア最終予選でオーストラリアと対戦し、2対0で勝利した結果、6大会連続となるW杯本大会出場を決めた。

 オーストラリア代表は6月にロシアで開催されたコンフェデレーションズ杯で、ドイツ(当時世界ランキング3位)とチリ(同4位)と対戦し、ドイツには2対3で敗れたものの、チリには1対1の引き分けではあるが勝ちに等しい戦いぶりを披露していたことから、私は日本代表がオーストラリア代表に勝つことは困難であると考えていた。

 また、その試合内容も危なげなく勝利を手にしたといえるほどの良い戦いぶりであった。W杯予選及びW杯本大会における日本代表対オーストラリア代表の対戦成績は、日本の8戦0勝3敗5分け、7得点12失点というもので、日本は一度もオーストラリアに勝利していなかった。それにもかかわらず、今回の試合で日本が放ったシュートの数は18本、対するオーストラリアのシュート数は日本の3分の1にも満たない5本であった。この数字だけからも過去最高の内容であったことがみて取れる。

 過去W杯予選で一度も勝てなかったオーストラリア戦で日本代表が勝つことのできた主要因は2つある。

 まず、日本の「ショートパスに備えた攻撃的な守備から素早く攻める」という対オーストラリア用に採られた戦術および選手採用がはまったことが挙げられる。日本代表が実践したのは、普段国内で取り組まれている「ショートパスをつないでゴールを目指す」という攻撃を趣向したスタイルではなかった。3人のミッドフィルダー(長谷部選手・山口選手・井手口選手)と素早く手数をかけずに得点シーンを作り出せる乾選手と浅野選手の顔ぶれでその意図が分かる。パスをつないで組み立ててくるオーストラリアに対して、日本代表は最前線で味方の為にボールの出所を限定する守備を乾選手・大迫選手・浅野選手が献身的に実行した。それにより、長谷部選手・山口選手・井手口選手はある程度ボールの出所を予測できる状況でプレッシャーをかけたりバランスをとったりすることができた。そのおかげもあって、後方に待ち受ける4人のディフェンスとゴールキーパーは、危険なゾーンで相手に自由なプレーをさせることはほとんどなかった。危険なゾーンにボールを運ばれなければ自信を持ってボールを奪いにチャレンジができることとなり、オーストラリアの得意とするサッカーを実行させなかった。

 次に、オーストラリア側の理由として、「革命を起こしていることが過信となり仇となった」ということが挙げられる。現在のオーストラリア代表指揮官は国内のサッカー界に「革命」を起こしつつあるという評価を得ていたようである。ショートパスをつないでゴールを目指すサッカースタイルの確立を目指し、先ほども述べたようにコンフェデレーションズ杯での成果としても現れていたのだ。そして、日本相手にも同じような戦術を踏襲しようとしすぎたのが敗因となった。以前のオーストラリア代表は空中戦を得意とし、日本代表はそれを大変苦手としていた。それにもかかわらず、自分たちが目指すサッカーを貫こうとするあまり今回の試合においてはゴール前での空中戦を意図的に仕掛けてくることを最後までしなかった。

 今回の試合から得られる教訓は次の通りである。オーストラリア代表のように目指す(やりたい・やれる)サッカーで勝てれば素晴らしい。しかし、国を代表するチームの目指すところ(目的)はあくまで勝利だ。そうすると、相手のやりたいことをさせない戦術で挑み、そのために必要な技術を発揮するということがあらゆる方法論のベースになるはずだ。そういうことができたうえで、プラスアルファとして自分達の得意とする特徴を発揮するというのが原則論である。

 しかし、9月6日に日本代表はオーストラリア戦と同じような戦い方でサウジアラビアに挑んだ結果、0対1で敗れている。オーストラリア代表に通じた守備戦術と技術をそのままサウジアラビアの選手達にも実行しようとしたのだ。その戦術・技術はサウジアラビアの選手達のやりたいことを打ち消すものではなく、日本代表がやりたいサッカーを実践しようとするものであった。やはり、原則論から外れては結果は伴わないということであろう。

中田一三
中田一三

なかたいちぞう 1973年4月生まれ。伊賀市出身。四日市中央工業高時代に、全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場。92年1月の大会では同校初優勝をもたらし、優秀選手に選ばれた。中西永輔、小倉隆史両氏と並び「四中工の三羽烏」と称された。プロサッカー選手として通算194試合に出場。現在三重県国体成年男子サッカー監督。