2022年7月26日(火)

▼四日市公害判決50周年の24日、本紙『まる見えリポート』が、小4女児を四日市ぜんそくで亡くした母親が小学生らに体験を語る姿を書いていた。40年間話題にできぬ深い悲しみの底から「供養にもなる」と10年前ごろから立ち上がったという

▼同日はまた三重大で「四日市公害訴訟判決周年シンポジウム」が開かれた。教訓を未来にどう生かすかの基調講演やパネル討論でパネリストの1人、被告企業の社員が、公害後の高度な排ガス処理技術採用など改善への取り組みを紹介。同大の特任助教が「公害からの回復は企業の努力がなければ実現しなかったのでは」

▼その通りだろう。「公害後」とは、むろん敗訴後ということで、裁判では同社幹部らは「亜硫酸ガスが人体に悪影響を与えることは考えていなかった。(ぜんそくの)主原因は粉じん」「磯津の汚染は、当社以外に大きな原因がある」などとし、心因性とまで示唆していた

▼企業敗訴を契機に、県はとにかく亜硫酸ガス規制を数倍厳しくし、公害封じ込めに血道を上げた。公害部門担当職員らは「達成できない企業はつぶれても構わない」とまなじりを決して企業に臨み、以後十数年、ばい煙や二酸化窒素酸化物規制まで徹底した。クリアできない企業は存続も危ぶまれ、企業は次々亜硫酸ガス削減技術を開発していった

▼母親と、シンポ参加者の四日市公害への思いに温度差はあるが、朴恵淑特命副学長教授は「未来への正の資産に代えるためにはパンドラの箱をそのまま閉じていてはいけない」。もう閉じてしまっているということである。