伊勢湾台風60年-上- 暗闇の中、家ごと流される 桑名の松井さん振り返る

【伊勢湾台風で決壊した河川堤防で当時を振り返る松井さん=桑名市福岡町で】

「何も見えない真っ暗闇の中、材木にしがみつき、濁流に身を任せた」

昭和34年9月26日、伊勢湾台風が紀伊半島を縦断し、全国各地に大きな被害をもたらした。高潮で堤防が決壊するなど被害が大きかった地区に住む松井洋さん(76)=三重県桑名市福江=は当時をこう振り返る。

松井さんは近くに住む伯父夫婦の家で被災した。その日は雨戸を修理するために訪れ、台風に備えて残ることに。空は「手を伸ばせば届く」と思うくらい雲で埋め尽くされており「いつもの台風とは違うな」と感じた。

夕方から風雨が強くなり、家が吹き飛ばされないよう伯父夫婦と一緒に雨戸を押さえていた時、家ごと流された。既に日は暮れ、辺りは一面夜の闇。津波が押し寄せるような「ゴォー」という音や、たたきつける風雨、時折光る稲光のほかは風で何かが飛ばされていることしか分からなかった。「そのときは命を諦めた」と振り返る。

だが、陸地側に流されていることに気付き「助かるかもしれない」と思い直した。飛来物から頭を守るため、首から下は水に浸かった。近くにあった材木をつかんで流れに身を任せ、1時間以上流された。「とにかく神頼みで助かるよう祈るしかなかった」

やがて雨や風が突然やみ、視界が晴れ、大きな秋の月が顔を出した。初めは月しか見えなかったが、眺めていると懐中電灯の灯が見え、松井さんは「助けてー」と叫んだ。当時としては珍しい2階建ての選果場。その2階に30人ほどが避難しており、助け出された。伯父の家から約2キロ流されていたという。伯母も同じ選果場で助けられ、伯父は一晩中電柱にしがみついて助かった。

一夜明け、松井さんが実家に戻ると両親らは無事だったが、海に面した干拓地に家を構えていた兄の妻が亡くなったことを聞かされる。伊勢湾台風で松井さんは親族9人を亡くした。

自衛隊による遺体の収容が始まり、家の前の坂道に多くの遺体が並べられた。その光景が今でも目に焼き付いている。

「子どもを抱いた母親の遺体もあった。母親はどんな思いで子どもを抱いていただろう。心境は想像しがたく、目頭が熱くなった」

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伊勢湾台風による死者・行方不明者は三重、愛知を中心に全国で5098人に上る。うち三重県の犠牲者は1281人。高潮による被害が顕著で、堤防が決壊したため、桑名市や木曽岬町などで広い範囲が浸水した。

堤防が決壊するほどの高潮はなぜ発生したのか。津地方気象台によると、台風は進行方向の東側に強い影響を及ぼす特徴があり、伊勢湾がその東側に当たっていた。さらに、台風が襲来した夕方から夜に掛けては干潮から満潮へ向かう時間帯だった。

潮位が上がっていた海水が台風による気圧の低下で吸い上げられ、高潮になった。その高潮が海岸に向かって吹く強風によって堤防を乗り越え、海抜0メートル地帯に流れ込んだ。台風のコース、時間帯、襲った地域など、被害を拡大する諸条件がそろっていた。

県によると、現在の堤防は伊勢湾台風と同規模の台風に耐えられるという。大半が昭和30年代後半に造られたため、平成24年から26年に掛け、ひび割れや空洞化が起きていた箇所を補修した。コンクリートの厚みを増すなど、長寿命化に向けた取り組みも進めている。

一方、専門家は「堤防が守ってくれると過信しない方がいい」と強調する。

インフラや防災関連の技術サービスを提供するハイドロ総合技術研究所(大阪市)の川崎浩司取締役(沿岸防災工学)は、昨年9月の台風21号で滑走路が浸水した関西国際空港を例に「堤防が壊れなくても水が入ってくる時はある」とし、「台風のコース次第では局所的に水位が上がるので注意が必要」と指摘する。

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明治以降の台風で最多の死者・行方不明者を出し、災害対策基本法が制定される契機となった伊勢湾台風の襲来から26日で60年。今に生きる教訓は何なのか。当時を振り返り、これからの災害対策に向けた課題を考える。