2017年12月1日(金)

▼大相撲の横綱日馬富士が引退会見で「弟弟子を思って叱った」という言葉にウソはあるまい。「礼儀と礼節がなってないときに、それを正して直して教えてあげることは先輩としての義務」というのも間違っているとは言えない

▼問題は叱り方、教え方である。スポーツの世界で長く引き継がれた体に刻み込む方法が体罰として、言葉による厳しい指導もパワハラとして否定され、それに代わる方法が確立されていないことが「本人のためを思って行き過ぎた」を口実にした暴力が根絶できない背景にある

▼「横綱とは」と問われ「土俵の中でお客さんに楽しんでいただける相撲だけを考えて責任を果たしてきた」と答えている。日馬富士が多くのファンに愛されるのはそのためだが、横綱規約の「品格、力量抜群」のうち「品格」への言及はなかった

▼力量が「優勝」を指して分かりやすいのに対し「品格」をどう考えていたか。横綱になって後も勝負が決まった後の勢い余っての「だめ押し」が直らない取り口に「品格」を磨いた形跡は見えない

▼横綱の発祥は地鎮祭で四股を踏み、荒ぶる魂を鎮めたことからという伝説がある。横綱が地位となるとともに「品格」があいまいになり「横綱は神の使い」などとされ、親方といえども遠慮しなければならない存在となった

▼横綱白鵬の一分間アピールや万歳など、横綱に品格を教える指導者がいないことを物語る。その弊害が、国を異にする力士にまず顕著に表れてきた気がしてならない。「暴力はいけない」の指導だけで根本的解決にならないのは相撲界ばかりではない。