きょう2月7日は「北方領土の日」―。1855(安政元)年に日ロ両国が平和裏に国境を定めた日に当たる。北方領土問題の解決に向けて日ロ両国の合意で進められてきた北方四島(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)への元島民らの墓参や交流事業は、新型コロナとその後のロシア・ウクライナの戦争により、令和2年度以降、中断したままだ。ロシアがウクライナへの侵攻を開始してからまもなく2年。かつて突然旧ソ連軍に侵攻され自分の住む村を奪われた北方領土の元島民、鈴木咲子さん(85)は、一刻も早いロシア・ウクライナの戦争終結と、北方領土問題解決に向けた交渉の再開を願う。「北方領土返還要求三重県民会議」(会長・田中智也県議、事務局・県)が本年度、北海道根室市など北方領土隣接地域に派遣した「青少年等現地視察団」を前に、択捉島出身の鈴木さんが、今の心境やこれまでの墓参・交流事業での体験、平和への思いなどを語った。第2次世界大戦の終戦からまもない昭和20年8月28日、同島に旧ソ連軍が侵攻。鈴木さんは3年間、旧ソ連の人々と生活した後、強制退去で島を追われ、樺太に連行されて苦しい生活を経験し、ようやく本土に帰った。鈴木さんら元島民の平均年齢は87歳と高齢化が進み、終戦時にいた北方四島の島民約1万7千人は5千人を切るまでに減少している。鈴木さんの講話をあらためて振り返る。要旨は次の通り。
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【今の心境・ロシアとウクライナの戦争】
私は昭和13年に択捉島の蘂取(しべとろ)村で生まれ、小学4年生まで暮らした。
昭和20年8月の旧ソ連軍の侵攻後(旧ソ連から島に)民間人も入って来た。蘂取村には、ウクライナ(当時ソ連の構成共和国)から来た人が多かったそうだ。ずだ袋みたいなの一つ抱えて入ってきて、住む家―日本人の家の中を仕切って一つ屋根の下で暮らす―を見に行くと、その袋の中から衣類を全部出し、代わりに枯れ草などを袋に入れてそれを寝床にして暮らしを始めようとしていた。
たくましい、という印象を持った。食べ物も何も持ってこないが、貸してあげた物をきちんと洗って返してくれたり、律儀なところを見せたりして。3年暮らしたが、いがみ合った記憶はない。
…今一番思っているのは、ロシアとウクライナの戦争を一刻も早くやめてもらいたい。子どもが一番かわいそう。解決するめどをちゃんとつけて、領土問題を話し合うテーブルにも着いてほしい。(視察団の)皆さんにお願いしたいのは、北方領土のことをずっと自分なりに勉強し、関心を持ち続けてほしい。
【墓参】
昭和39年に北方墓参(元島民が簡単な身分証明書で墓参目的で北方四島を訪れる)が始まったが、択捉島への墓参は平成2年になってようやく許されるようになり、うれしかった。生みの両親は今でも択捉島に眠っているので。どんな風になっているんだろう、いろんなことを考えて、きょうだいを代表して43年ぶりで墓参に行ってみたら、人の住めない村になっていた。
70軒以上あった家屋は全て壊され、学校の校門だけが残っていた。あの衝撃は今でも忘れない。思わず校門に抱きついた。最初は涙も言葉も出なかった。残念だった。
ロシア(旧ソ連)人が家を建てる時にどこかへ持ち去った残りだという墓石を集めて慰霊祭の場とし、長い間お参りに来られなかったことをおわびし、心の中で手を合わせて語りかけた思いは「父母に届いた」と納得して帰ったが、やっぱり行きたい時に行って、供養してあげたい。今でもその思いは同じ。80年近くなるが、なかなか話が進まないというのは、限りある命の者としてはどうしようもない。
【ビザ無し交流と心の変化】
平成3年にゴルバチョフ大統領(当時)が訪日され、島に住むロシア人と本土の日本人とが互いに行き来し交流する「北方四島ビザ無し交流」という事業が生まれ、私も参加した。
私は子どもの頃からロシアの国は怖いと思っていた。かけがえのないふるさとを奪われ、追われて、そのさなかに仲の良かった友達が5人も6人も栄養失調で亡くなっていった。戦争に行った兄も中国大陸でソ連兵の銃で撃たれ戦死し、帰って来なかった。それらを悶々としながらずーっと引きずっていた。
交流事業ができた時「私がちゃんと向き合って事業に参加できるかしら」という不安があったが、しかし「参加したからには前を向いて行かなければ」と。
択捉島に行き、20代の若い夫婦と赤ちゃん、おばあちゃんの4人家族の家を訪ねた。その青年が、私を元島民と知った上で「昔この島に住んでいた日本人は、今住んでいるロシア人を憎んでいませんか」と言葉をかけてくれた。
こんなに率直に言ってくるなんて思いもかけず一瞬びっくりしたが、相手がそういう風に聞いてくれるなら私も今まで思ってきたことを少しでも伝えられたらと、まず墓参に来たときの感想を話した。
私が「43年ぶりでふるさとに来てみたら、全部壊され、先祖のお墓まで粗末にされていた。こんな悲しいことはない」と言うと、その家のおばあさんが「亡くなった先祖を敬うのはロシアも同じ。私の代でしたことではないが、大変恥ずかしいことをしたと思う」とポロポロ涙をこぼしながら答えてくれた。
その時思い出した。外国人なんて初めて見たが、いがみ合わずに(侵攻から)あの3年間(旧ソ連の人と共に島で)過ごしてきたことを。実際に自分の耳で聞き、「この島を追われていった日本人はどうしているだろう」と今でも思いやってくれる人もいるんだ、と感じた。
おばあさんの言葉を聞いているうちに、ずーっと引きずっていた大きなわだかまりが段々小さくなってくるような気持ちだった。
ゴルバチョフさんの提案した交流事業は30年近く続いた。コロナで行けなくなったが、それまで良いつながりをちゃんと、お互いに築き上げてきた。それが、いいところでプツンと切れたが、交流を続けていかなければならないし、いつかその時が来るだろう。私が生きている時かどうかは分からないが。つらいこと―幼なじみや兄が亡くなったこと―は忘れてはならないが、交流にはちゃんと向き合っていかなければいけない。
という風に、時の流れと、自分が年を重ね、心に変化が現れた。自分でも驚くような変化だ。決してそうはならないだろうと思っていたが。やはり平和の道を探すのは、こういう風にしないとだめなんだろうなと思う。だから皆さんも戦争や自然災害の悲しみを、決して忘れないで長く、長く語り継ぐ―生きている間は、その役目は大きいと思う。