伊勢新聞

<まる見えリポート>本居宣長ノ宮を存続へ 松阪、復興プロジェクト着手

【四五百の森に鎮まる本居宣長ノ宮=松阪市殿町で 】

本居宣長(1730―1801年)を祭る三重県松阪市殿町の本居宣長ノ宮(植松有麻呂宮司)は、併設する本居会館の結婚式での利用がなくなり、維持が難しくなってきた。危機を知った東京の企業の協力を得て「本居宣長ノ宮復興プロジェクト」を立ち上げ、同会館の再活用を中心に取り組み始めた。

本居宣長ノ宮の前身は明治8年、同市山室町の国史跡「本居宣長奥墓(おくつき)」近くに創建された山室山神社。松阪市役所の場所に移転した後、大正4年に四五百(よいほ)の森の現在地へ移った。本居神社に改称し、平成7年に本居宣長ノ宮へ改めた。学業成就・合格祈願の絵馬が人気。

明治維新後の社格制度では県社に位置付けられ重視されたが、敗戦に伴い神社の国家管理が廃止されると、氏子組織を持たないため苦境に立たされた。

収益事業として結婚式場を開設したところ、家庭での結婚式に代わり神社での神前結婚式が広まる中、軌道に乗り、昭和60年には披露宴会場として本居会館を新築した。

だが、専門の結婚式場やホテルでの披露宴が広まるにつれ、運営が厳しくなった。20数年前から結婚式は開かなくなり、本殿の建て替えは実現しないままとなっている。

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【本居宣長ノ宮復興プロジェクトを立ち上げた(左から)山近社長、植松宮司、江川社長】

会員制オンライン研修を運営する「NIHONDO(日本道)」(東京都豊島区)の山近義幸社長が、本居宣長ノ宮存続の危機を知り、就労・入寮サポート「ワライフ」(同新宿区)の江川隆紘社長とともに支援に乗り出した。山近社長は同宮の事務局長、江川社長は本居会館の総責任者に就いた。

山近社長は、日露戦争勝利に貢献した児玉源太郎を祭る神奈川県藤沢市江ノ島の児玉神社に触れ、「競売、売却で消滅した。涙が出た。二の舞いには絶対にさせない」と訴える。

江川社長は5年前にソフトバンクを退社し、住まいと仕事で困っている人を支援するワライフを創業した。宣長会館の活用に向け、「新たな世代に向けた教育と啓発、情報発信の拠点として、地域・企業と連携し、活性化させていくことが日本の未来につながると確信している」と意気込む。

本居宣長ノ宮復興プロジェクトは「日本の財産を守り、松阪市の新しい名所に!」を掲げる。広報に力を入れ、「本居会館を学びの聖地とする」とうたい、受験合宿や社員研修、部活サークルでの利用を図る。

同プロジェクト第1弾として昨年11月4日に、皇學館大学元教授らを招き再興を考えるシンポジウムを本居会館で開いた。今年は早速、元衆院議員を講師に「元旦講演会」を開催。イベントを通じて盛り上げていく。

商社出身の植松宮司(88)は、宣長の主著「古事記伝」の出版に関わった宣長門下の版木師、植松有信の子孫。「宮司単独では支えきれない」と話す一方、「時の松阪町民の熱意で創祀された宮のともしびを継いでいくことが使命。少しずつ前進している」と語る。

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本居宣長ノ宮の隣に式内社の松阪神社が鎮まり、その古称の意悲(おい)神社が「よいほの森」の語源といわれる。道を挟み、国史跡「松坂城跡」が広がり、城跡内に松阪市魚町から移築した宣長旧宅「鈴屋」と本居宣長記念館がある。

宣長は古事記伝で「神」について、「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物」と書いている。古事記を基に日本語を解明していった宣長の偉業からすれば、祭神になるにふさわしい。

宣長と親交があった谷川士清(ことすが)(1709―76年)も津市押加部町の谷川神社に祭られている。同市八町に国史跡「谷川士清旧宅」が残る。士清は不要文書を近所の古世子明神に埋め市史跡「反古(ほご)塚」となっているが、そこが谷川神社に変わった。隣の福蔵寺に士清の墓がある。

士清は「日本書紀」全巻にわたる最初の注釈書「日本書紀通証」を著わし、本邦初の50音順の国語辞典「和訓栞(わくんのしおり)」をつくった。

不朽の業績を残した2人の国学者。神社に加え関係史跡を巡りたい。