斎宮歴史博物館(三重県明和町竹川)は近年、国史跡「斎宮跡」の西部、同館南で初期斎宮の解明を目指す発掘調査を進め、飛鳥・奈良時代の斎王宮殿の方形区画を見つけた。史跡東部に広がる平安時代の碁盤目状の方格街区と併せ、斎王の宮殿の移り変わりが分かった。奈良時代の区画は平城京のように中心軸を南北に合わせている。一方、その前後の飛鳥、平安時代の区画の中心軸は傾いている。それぞれ中心軸は南の丸い山に突き当たり、そこを中心に広がる山並みは形が共通している。伊勢神宮ができるまで天照大神を祭っていたとされる奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社近くから望む山並みと同じ形をしている。
斎王は天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から占いで選ぶ。天皇に代わり伊勢神宮で皇祖神の天照大神を祭り、南北朝時代まで続いた。
祓川右岸の段丘縁辺から、堀立柱塀が方形に囲む飛鳥時代の区画と、奈良時代の東西に2つ並ぶ方形区画が出てきた。いずれも東西40メートル台、南北50メートル台で同規模。中心地は平安時代に史跡東部に移り、竹神社あたりに斎王がいる「内院」が位置し、そこを中心に約120メートル四方の方形区画が最大で東西7つ、南北4つ連なった。
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奈良時代の区画は、中国の条坊制を採用した平城京のように、中心軸が南北に合っている。宮殿が北に位置し、天の中心の北極星になぞらえ、天体の運行と政治秩序を重ね合わせ分かりやすい。
次の平安時代の方格地割は北から約4度西に傾けて設計している。内院の正面、傾く先は南、度会町の牛草山に通じる尾根のうち、半円を描く日向(ひなた)浅間山(500メートル)を指す。左右に三角形の突起が並び、山並みの右は短く下がり、左は神岳へ長く上がる。
最初の飛鳥時代の方形区画は、皇位継承を争う672年の壬申(じんしん)の乱を制した天武天皇が派遣した大来皇女がいたようだ。中心軸は北から東に約33度傾き、向きがそろう正殿と脇殿を確認した。正殿前は空いている。正殿の正面、南西南は明和町岩内の標高約60メートルの丸い山に突き当たる。右側に大紀町滝原の浅間山の三角形が付き、左は稜線(りょうせん)が度会町の国束山まで上がっていく。
どちらも奈良県の大神神社から望む山並みと似ている。大神神社近くに最初の巨大前方後円墳、箸墓古墳があり、後円部から前方部が指す西南西を見ると、球体のような半円の山に当たり、右側に三角形の岩橋山が付き、左側は葛城山へ稜線がなだらかに上がっていく。
いずれも①半円の山を指す②右側に三角形の山が付く③左へ山並みが徐々に高まる―という共通点がある。丸い頭の鳥が右方向へ羽ばたく形をつくる。
神社や古墳からは羽ばたくかのような山並みが見え、去来する神を象徴していると思われる。日向浅間山の「日向」は「霊(ひ)が向かう」の意味だろう。頂上に登ると大日如来の石像が鎮まっていた。
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「日本書紀」によると、天照大神は大神神社近くの「天皇(すめらみこと)の大殿(みあらか)」で祭られていたが、垂仁天皇の皇女、倭姫命が近江、美濃両国を経て伊勢国へ移した。
「倭姫命世記」によると、伊勢国へ入った倭姫命は「白浜真名胡の国」でおはらいをした後、「飯野の高丘に入り座(ま)します。遂に五十鈴の宮に向ふことを得たまへり。尓(そ)れ自(よ)り以来(このかた)、天皇(みかど)の太子(みこ)、斎(いつきの)宮、駅使(やけのつかひ)・国司人等(のつかさひとら)に及ぶ如き、此(こ)れ等(ら)の川に到りて解除(はらへ)を為し、鈴の声を止(や)むる」とある。
白浜は祓川の河口とみられ、「白良浜」と記した標柱が明和町浜田の海岸堤防にある。飯野高丘は松阪市山添町の神山の麓、神山神社とされ、そこから祓川と櫛田川が分流する。「此れ等の川」は両河川だろう。斎宮が祓川のほとりにある由来を説いている。
日本書紀は、大来皇女が伊勢へ向かう前、奈良県桜井市初瀬の「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是(ここ)は先(ま)づ身を潔めて、稍(やや)に(次第に)神に近づく所なり」と記録する。初瀬谷の開口部に大神神社と同じ山並みが見える。
平安時代の斎宮内院があった竹神社あたりは小字名から牛葉東区と呼ぶ。「古事記」で大国主が国譲りを迫られ、天照大神の意向について「な(おまえ)がうしはける(領有している)葦原の中つ国は、あが御子の知ら(領有)す国」と伝えられる場面がある。牛葉や牛草山は「うしはく」に由来する名前かもしれない。
平安時代の斎宮近くにある土師器(はじき)生産拠点の北野遺跡からも斎宮からと同じ山並みが見える。古墳―奈良時代に土器を焼いていた。斎宮や伊勢神宮に運ばれた。霊地の土で作る目的があったと思われる。
桜井市の泊瀬斎宮や明和町の斎宮から見える羽ばたく山並みは天照大神を象徴するのだろう。奈良県から三重県にやって来た斎王にとってなつかしい山並みだったと思う。