「引退するまでの43年間、おかげさまで健康にやってこれた」と、ほっとした表情を浮かべながら語る。受章の知らせを受けて「支えてくれた家族のおかげだと思っている」と感謝する。
松下電器産業に勤めていた30歳のときに父・秀二氏が亡くなり、急きょ衆院選に出馬した。「当時は政治の経験がなく、ずぶの素人だった」。衆院議員の故田村元氏に「頭の下げ方から全て教わった」
初出馬を含め、二度の落選を経験。「支援いただいた皆さんには特に苦労をかけた」。就任後は岡田克也氏ら県選出の国会議員が相次いで自民を離れていく中で「弱い県内の自民党を一人で支えてきた」
その努力は近年の「自民復活」という形で実を結んだ。令和3年の前回衆院選では県内の自民候補全員が当選。昨夏は悲願の参院2議席独占を果たした。「若い人たちにバトンタッチできた」と目を細める。
他方、故加藤紘一元幹事長と谷垣禎一元総裁を首相にできなかったことを、今も悔やむ。「加藤さんは弱者への配慮が強く、外国語も堪能だった。首相になっていれば今の日本は変わっていただろう」
自民が長期政権を担ってきた背景に党内の「疑似政権交代」があったと説く。「岸田さんは変えるために総理になったはず。国民は『相変わらず』と思っているのでは」と、現状に「変化」がないことを憂う。
少子化の原因は東京一極集中だと主張。地方への分散が進まない原因には「マスコミと官僚」を挙げる。「地方をよくする思いだったはずの県出身者も、長く東京に住めば変わってしまう」と嘆く。
若者には「保守的になってちゃいかん。もっと前向きに、積極的に」とエールを送る。「海外にも行っていろんなことを学んでほしい」とし、グローバル社会で生き抜くには英語が必須だと訴える。
現在も地元と東京を頻繁に行き来するほか、各地から舞い込む講演の依頼にも応える。県テニス協会長としての職務にもまい進。インターハイや国民体育大会での県勢の活躍を、自分事のように喜ぶ。
趣味のテニスとゴルフを楽しめる時間もできたようだ。年齢以下のスコアで回りきるゴルフのエージシュートが「一生の目標」という。「好きなこともしながら人様に多少の役に立つこともしたい」
<略歴>伊賀市出身。慶応大卒業後、松下電器産業での勤務を経て昭和55年の衆院選で初当選。12期を務めた。運輸相や北海道開発庁長官、厚生労働相などを歴任。党国会対策委員長も務めた。