原告のぜんそく患者9人が勝訴し、企業6社の共同責任を認めた「四日市公害」訴訟の判決から、きょう24日で丸50年となった。原告9人は全員がすでに亡くなっており、公害の教訓をどう後世に伝えていくか模索が続く。
原告9人は昭和42年9月、第一コンビナートに立地する企業6社を相手取り、津地裁四日市支部に提訴した。47年7月の判決では、排煙と健康被害との因果関係を認め、企業6社に総額8800万円の賠償金の支払いを命じた。
判決から50年が経過し、原告9人のうち、最後の生存者だった野田之一さんが平成31年1月に87歳で亡くなった。四日市公害の風化の進行が懸念される中、自身の経験を語り続ける人もいる。
「親より先に死ぬことは親不孝と思う。体を大事にして、しんどいときは休んでください」―。小学4年生の長女尚子さん=当時(9つ)=を四日市公害によるぜんそくで亡くした谷田輝子さん(87)=菰野町=は7月上旬、市内の小学生を前に、こう語りかけた。
谷田さんは、四日市公害患者と家族の会の代表を務め、公害の歴史や教訓を風化させないようにと、四日市市安島1丁目の「四日市公害と環境未来館」などで、小学生らに自身の経験を話している。
谷田さんは当時、四日市市西新地に家族4人で住んでいた。尚子さんは幼稚園のときにぜんそくを発症し、小学2年生で認定患者となった。
尚子さんは学校に行けないこともあり、運動会や遠足などの行事にも参加できなかった。夜になるとせきが出てきて、少しでも楽になるようにと谷田さんは背中をさすった。尚子さんは「何で私だけなったんやろ」とも言っていたという。それでも、常に机に向かって一生懸命勉強していたという。
ぜんそくがひどくなり、医師の助言もあって工場から離れた菰野町へ引っ越した。四日市市の自宅は改修したばかりで、引っ越しや自宅を建て直す費用もかかったが、「借金を背負ってでも尚子を良くしたい」と思い、経営していたジーンズ店で必死に働いた。
尚子さんは公害訴訟の判決をテレビで見ていて、「良かった」と喜んでいたという。だが、その約2カ月後の9月2日、自宅で尚子さんは発作で亡くなった。
谷田さんは40年間、尚子さんのことを話すことはなかったが、周囲からの要望もあり、「話すことで尚子の供養にもなる」と、自身の体験を伝え続けている。
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四日市公害と環境未来館では、公害訴訟判決から50年の節目に合わせ、企画展「四日市公害判決50年展~過去を振り返り未来へつなぐ~」(伊勢新聞社後援)が開かれている。8月28日まで。写真139枚などを展示し、当時の様子を伝えている。