伊勢新聞

2022年2月23日(水)

▼死去した歌手で俳優の西郷輝彦は橋幸夫、舟木一夫とともに御三家と言われた。由来は徳川幕府を支え、将軍後継者を送り込む格式の尾張、紀州、水戸三藩の呼称になぞらえた。リスペクトのニュアンスがある。西城秀樹、野口五郎、郷ひろみが新御三家として話題になる時、元祖の方の同世代としては「新」がつけられているかどうかに神経をとがらせた

▼最近はグループ歌手全盛だが、御三家の場合はそれぞれが独立の歌手で、話題づくりの一環だった。リーダー格の橋幸夫が訃報に「寂しいです」とコメントし「元気なときにもっと会って話がしたかった」。かつて数年遅れでデビューした舟木一夫を見て「これで自分の時代は終わったと思った」と語っていた。西郷輝彦の時も「いよいよ」と似たようなことを言った

▼事務所、レコード会社総がかりでライバル意識をむき出しにしていたからテレビで一緒に映ることもなかった。団体で売り出す後年のトリオや4人組とは違う。周囲も本人も、気楽に話せる関係ではなかった。懐かしの番組などで顔を合わせるようになっても、ぎこちなさは消せなかった

▼西郷輝彦がほかの2人の歌手と違ったのは抜群の華やかさで、持ち味は「星のフラメンコ」で結集するが、歌に対する思いは異なり芝居の世界へ転進した、劇中でたまに口ずさむ歌に往年を懐かしんだ

▼本紙が彼の特集号を制作し、後援会などファンから好評だったのは、その前後のことだったか。鳥羽一郎の歌『熊野灘』を作詞した報道部次長の故山本茂が担当した。なにがしかの思い出とともによみがえる。