▼「三日坊主」と言えば、この時期、思い浮かべるのは日記か。それぞれの「三日坊主」があろう。この道一筋の生き方をしてきたかどうかに関わらず、その数も一つや二つではあるまい
▼「マーレイ・ワズ・デェッド、ツー・ビギン・ウイズ」―クリスマス・イブになるとこの数年、ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』の薄い英書を開き、冒頭の「はじめにいっておくけど、マーレイは死んでいる」(夏目道子訳)を読む。中学生以来、何度も英語をものにしようとして果たせなかった。子どもの頃親しんだこの小説で克服しようとしたのだが、最初の「アズ・デェッド・アズ・ドア―ネイル」(ドアの飾りクギのように死んでいた)でいつも行き詰まる
▼「飾りクギ」がピンとこずに考え込んでしまうのだが、ディケンズは死を表すこの伝統的表現を変えるのは先祖の知恵を乱すことになると言っている。25日は小説の幕切れと同じ快適な朝だった。「メリー・クリスマス」と声を出したくなるが、本紙「歳末点描」は、子どもたちが一人暮らしのお年寄りにケーキを贈る姿を伝えていた
▼街に流れるジングルベル、教会の祈り、家族団らんなどクリスマスはこの欄の常連だが、人生百年時代の生きにくさにコロナ禍の追い打ち。高齢者がある意味、注目された年か
▼「世の中は三日見ぬ間の桜かな」(大島蓼太)。転変は世の倣いだが「露の世は露の世ながらさりながら」(小林一茶)。悟り済ませるものでもない。翌26日は寒波襲来。雪が舞う迎春モード。三日坊主大いに結構。挑戦する気を燃やそう。