伊勢新聞

2021年9月25日(土)

▼「スポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化であり」と平成29年、日本体育協会が日本スポーツ協会へ名称変更するにあたり、趣意書の冒頭に書いている。「言うまでもなく、体育は教育的営為」の文言もある。名称変更はある意味「体育」批判、ひいては教育的営為からの決別とも受け取れる

▼「体育」の概念について、同趣意書は「時局が求める精神を涵養し、究極的には人格の完成を目指す教育的営為」。「涵養」は「自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと」(広辞苑)。「教育」と訳された「エデュケーション」は「導く」が原義。「能力を引き出す」の趣旨で、比べて教育、体育の言葉自体に体罰を内蔵させる危険性を浮き彫りにする

▼「教え養う」の意識が、いじめの被害者に反発をしばしば招く。いじめで不登校になった元県立高生との訴訟が和解になったと思ったら、いじめで自殺した県立高生遺族から訴訟を起こされた。県教委第三者委員会の報告書が不信を買い、県いじめ調査委員会が設置以来、初めて稼働し、再調査を進めていたが、慣れぬことゆえか、遺族の不信を募らせるだけだったのだろう

▼先のいじめ不登校の事案では、和解合意後の教育長、子ども安全対策監の発言で振り出しに戻りかけ、父親から「関係者全員が不誠実で、それぞれが保身の塊」の批判を浴びた。調査報告書は早々ホームページから削除され、批判をうなずけさせた。子どもや遺族に「寄り添う」と繰り返しながら「教え養う」姿勢が不信を招くことに、おそらく気がついてはいまい。