<古事記と三重>甥を見守る倭比売命

【倭姫宮(伊勢市楠部町)】

倭(やまと)から伊勢へと神鏡とともに巡ったと『日本書紀』に語られていたヤマトヒメは、アマテラス(天照大御神)に仕える巫女として古事記にも登場する。いわゆる伊勢斎宮(さいぐう)となった最初の人である。古事記のヤマトヒメ(倭比売命)は、甥(おい)ヤマトタケル(倭建命)の庇護者として、重要な役どころを与えられている。

父であるオホタラシヒコ(景行天皇)とのちょっとした言葉の行き違いによって兄を殺したヲウス(小碓命)は、凶暴さを畏れた父天皇から、熊曾(くまそ)討伐を理由に体よく都を追い払われる。それに気づかない少年ヲウスは喜んで九州に向かい、叔母ヤマトヒメにもらった衣(ころも)と裳(も)を着て少女に変身し、熊曾兄弟を倒す。

殺した相手に勇敢さを称えられ、ヤマトタケル(倭建命)の名をもらって都に凱旋するが、父天皇は少しも喜ばず、すぐさまヤマトタケルを東国遠征に向かわせる。ヤマトタケルは伊勢に行き、大御神(おおみかみ)の宮を拝むと、アマテラスに仕えるヤマトヒメに向かって、「軍隊も賜わずに再び戦いに赴かせるのは、天皇が、自分のことを死んでしまえと思っているからに違いない」と言いながら涙を流す。するとヤマトヒメは草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、急なことがあったら開きなさいと言って袋を渡し、ヤマトタケルを東国に送り出す。

この場面には、肉親の女性が男を守護するという古代的な信仰のかたちを見ることができる。古事記や万葉集には、母や叔母あるいは姉が、一族の男たちを見守り庇護(ひご)する話や歌がいくつも伝えられている。そうした血縁的な紐帯(ちゅうたい)が、ヤマトヒメとヤマトタケルとのあいだにも窺える。

日本書紀にも同じ場面はあるが、勇んで出で立つヤマトタケル(日本武尊)に草薙剣を渡しながら、「慎め、怠るな」と鼓舞するばかりである。それに対して古事記が興味深いのは、親子や男女など、人と人との細やかな心情の交流を描こうとするところである。

三種の神器のうち、鏡と伊勢神宮との関係は前回取り上げたが、ここでは草薙剣も伊勢にあったと伝えている。その由来はどこにも書かれていないが、ヤマトヒメが倭から持ってきていたのか。その後、剣はヤマトタケルとともに旅をし、尾張の熱田神宮に留められたのはよく知られている。一方のヤマトヒメは内宮別宮(べつぐう)の倭姫宮に祀られているが、内宮の別宮や摂社で人を祀るのはめずらしい。ただし、創祀は大正時代のことと伝える。