三重県明和町竹川の斎宮歴史博物館は飛鳥時代の初期斎宮の解明を目指し、同館南約500メートルで発掘調査をしている。見つかった初期斎宮の方形区画は北から東に約33度傾き、約1・5キロ北の同町坂本にある前方後方墳「坂本一号墳」とほぼ同じ向きだった。傾きの先には大紀町滝原の浅間山(733メートル)の三角形が見え、麓には伊勢神宮内宮の別宮、瀧原宮がある。古墳、宮域、特定の山の関係は奈良県の飛鳥京でも見られる。(松阪紀勢総局長・奥山隆也)
同館は開館30周年・史跡斎宮跡指定40周年の記念特別展「大来皇女(おおくのひめみこ)と壬申の乱」(伊勢新聞社後援、11月10日まで)を開いている。斎王は天皇に代わって伊勢神宮の皇祖神、天照大神を祭る未婚の皇族女性。大来皇女は皇位継承を巡る672年の壬申の乱に勝利した父の天武天皇から斎宮へ派遣された。
斎王制度の始まりに迫る同展の内覧会で同町に住む西場信行県議は「斎宮がなぜ明和町に創立されたのか謎。一番大事で知りたい」とあいさつした。
疑問に応えるように初期斎宮跡の発掘が進み、昨年度は堀立柱塀跡がつくる北から東に約33度傾いた方形区画(東西約40メートル、南北55メートル以上)と、それと向きをそろえる内部の大型堀立柱建物跡1棟を発見し、飛鳥時代の斎王宮殿域が分かった。隣には同じ向きの高床倉庫群跡が出た。
同館は傾きについて発掘報告で「河岸段丘の地形に方向を合わせて建てられたと考えられます」と説明している。
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発掘した初期斎宮跡は天武朝から文武朝の7世紀後半から8世紀初めに造営されたとみられる。その前の7世紀前半に坂本一号墳(全長31メートル)は築かれ、大和朝廷から与えられた金銅装頭椎大刀(かぶつちのたち)が県内で初めて出土した。明和町の解説資料は「葬られた人物は、斎宮の成立に関与した可能性があり、明和町に斎宮が造られるきっかけになったといえるかもしれません」と書いている。
同墳の中軸線は初期斎宮跡の方形区画とほぼ同じ傾き。同町は史跡公園に整備し、墳丘を復元した。裾には「お墓なので、のぼらないでください」の立て札がある。近くで後方部から前方部の方向を望むと約26キロ先の浅間山が正面に見える。
元海上保安官の古代史研究者、井上香都羅氏は弥生時代の銅鐸(どうたく)出土地は神山を拝する祭祀の場という仮説を立て全国で現地調査し、全てで共通する山の形を確認した。「銅鐸『祖霊祭器説』」(彩流社、平成9年)で「山に宿った祖霊を、年に一度か二度、麓の山を正面に拝する場所に招いて、祖霊の祀りを行った」とみて、「前方後円墳の前方部が神山の方角を向いており、銅鐸祭祀と同様に神山とかかわっている」と指摘した。
松阪市宝塚町の旧伊勢国最大の前方後円墳「宝塚一号墳」(5世紀初頭、全長111メートル)の場合、後円部に立つと前方部が指す約32キロ先の鳥羽市の答志島の半円の山が見える。
瀧原宮は日本書紀に続く正史「続日本紀」の文武天皇2年(698年)に載る「多気大神宮を度会郡に遷す」という記事に絡み注目される。多気大神宮を瀧原宮として、移した先が内宮で、別宮の瀧原宮が名残とする説があり、旧大宮町の「町史」は多気大神宮の瀧原宮説と斎宮説を紹介している。
初期斎宮跡から望む浅間山の左手前にある標高約60メートルの山の右手前には、明和町上村の同約40メートルの丘陵があったが、土砂採取で消滅している。「神前(かんざき)山」と呼ばれていた。
また、初期斎宮跡では冬至の朝日が伊勢市の朝熊ヶ岳(555メートル)から昇り、夕日は多気町の烏岳(545メートル)に落ちる。両山は標高も初期斎宮跡からの距離もほぼ等しい。内宮は朝熊ヶ岳の麓に鎮まる。
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奈良県橿原市の同県最大の前方後円墳「丸山古墳」(6世紀後半、全長330メートル)に登ると、前方部が指す同市の畝傍山(199メートル)が真正面に見える。
それに続く時代の推古天皇(在位592―628年)が約2キロ離れた明日香村に営んだ飛鳥京最初の王宮、豊浦宮(とゆらのみや)・小墾田宮(おはりだのみや)推定地からも畝傍山が見える。飛鳥京の他地区とは違い甘樫丘に遮られない。
飛鳥の宮は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を最後として、天武天皇の妻、持統天皇が694年、北西に隣接する藤原京へ遷都した。藤原京では冬至の日の出が天香山(152メートル)、日没が畝傍山の方向となる。
元中高校教員の古代祭祀(さいし)研究者、薬師寺慎一氏は「聖なる山とイワクラ・泉」(吉備人出版、平成18年)で、「天武天皇が藤原京の大極殿の位置を、香具山の方向から昇る冬至の朝日と畝傍山の方向に沈む冬至の夕日を、双方ともに拝める地点に求めたと推測される」「なぜ斎宮がそこに設けられたかを考えるにも、朝熊山との位置・方位関係で考えるのが妥当」と洞察した。
以上の位置関係に意味があるのか。全て偶然だとも言える。