伊勢新聞

2019年9月26日(木)

▼伊勢湾台風追悼式典での被災住民のパネル討論で、語り部をしている伊藤学さんが「干拓地の堤防が壊れ、あっという間に家に水が入り」。この「干拓地」は木曽岬干拓地ではない

▼国営鍋田干拓事業の木曽岬工区として昭和25年計画されたが、ほとんど完成していた鍋田工区の堤防が全壊。多数の犠牲者を出して木曽岬工区は着工延期。木曽岬干拓事業として再スタートすることになり、愛知県との県境問題が起きる主因となる。鍋田と木曽岬工区は弥富町(愛知県、当時)、木曽岬村(当時)それぞれの地籍が入り組み、相殺することで合意していたとされる

▼伊勢湾台風はまた昭和の大合併(28―36年)でも木曽岬村を翻弄した。愛知県との越県合併を巡って村論が二分し、両県関係者が大挙して村に入り、自県への運動をし、村議会はある時は愛知、ある時は三重に議決して混乱。そのさなかの台風が甚大な被害を双方にもたらし、対立も消滅した

▼どちらも弥富との歴史的強い関係が背景にある。同所が本社の企業の木曽岬干拓地進出に、加藤隆木曽岬町長が「弥富は距離が近く、昔からの縁が進出につながったと思う」。山あり、谷もあった縁である。県境問題では両県知事が静観の約束をしていたのに愛知県議会が越県合併を承認し、全面対決となった

▼当時の田中覚知事は、首相に仲裁を求める要望書を送ったが、発信を裏付ける文書がない。官邸の反応もない。「確かに指示した」と田中氏は語り、県の最大の謎の一つになっている。県の文書ミス、管理のずさんさは根が深いのかもしれない。