▼義理の息子の友人と結婚し、その夫を愛人と共謀して殺害する。夫の生命保険の金額を増額していたともいう。起訴状などが明らかにした鈴鹿の殺人事件の犯行は三文小説風で、サスペンスドラマのストーリーとしてはあまり受けないのではないか。だから「事実は小説より奇なり」という言葉が、バイロンの意図とは別に、時代を超えて持ちこたえているのかもしれない
▼巧みな小説のように、緻密な構成などはないのだろう。矛盾、感情の移り変わりなど、人間ならではの言動が、事件のつじつまを不明瞭にする。公判が始まり、ますます奇なり、すなわち三文小説ぶりが増幅したようだ。起訴状は、実行犯を愛人としているが、本人は否定し妻だと証言。妻の方も、実行したのは愛人だと、互いに罪をかぶせ始めた
▼台所で包丁を手にした際「人を殺すなんてあり得ない」と考え直した、と愛人。妻にけしかけられ、犯行を手伝ったという。一方、妻は、夫に睡眠薬を飲ませ、犯行の時は、愛人が実行するそばで夫の脈を測っていたという。いかにもありそうな話になってきた
▼愛人が一人で罪をかぶることにしていたことでは二人の証言が一致するが、愛人は「洗脳されていた」。弁護士や母の指摘で気づき「だましたことは絶対に許さない」と怒る。妻は今も愛人を愛していて、不利な証言をした理由は「二人できれいに罪を償い、また一から頑張りたいから」。小説、サスペンスドラマとしては、なかなか考えさせられる筋立てになってきたのではないか
▼事実は―「小説に似たり」ということなのかもしれない。