伊勢新聞

<まる見えリポート>神のつく地名と山 時代、場所超え共通する景観

【旧神原村の八幡宮から見る局ヶ岳と山頂手前左右の小ピーク=松阪市飯高町有間野で】

古代史研究者の井上香都羅氏は全国の弥生時代の銅鐸(どうたく)出土地や縄文・旧石器時代の遺跡計約1000カ所を調査し、全てで三角形の山の手前左右で山が交差するか、後ろ両側に山が控えて左右対称となる「神山」の景観を発見した。古墳や神社から望む山の姿にも当てはまり、県内でも観察できる。特別な場所にふさわしい地名になるようで、「神」が付く度会郡大紀町神原(このはら)の縄文時代の樋ノ谷遺跡の近くに神山形の山がある。同じ地名の松阪市飯南町有間野の旧神原(このはら)村の八幡宮から望む局ヶ岳も神山形になっている。(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

宮川右岸の樋ノ谷遺跡は縄文時代早期と中期の住居跡とされる穴の他、メノウ製の耳飾りなどが見つかった。町史跡に指定され、遺跡公園としてかやぶきの竪穴住居2棟を復元している。

同公園横の宮川左岸に標高380メートルのおむすび形の山があり、両サイドに山並みが連なる。反対側山麓に紀勢自動車道三瀬トンネルが通る。

旧神原村は道の駅「飯高駅」がある同市飯高町宮前の櫛田川を挟んだ対岸。集落外れの八幡宮から局ヶ岳(1029メートル)を望むと山頂の手前左右に小ピークが並び、神山形となる。

また、五ヶ所湾に面した同郡南伊勢町神津佐(こんさ)にも同じ漢字の神原(かんばら)神社があるが、これは合併や合祀に伴う合成語。「南勢町誌」では「神原村誌」から引用し、「明治22年町村制実施ノ際撰(えら)ヒシトコロニシテ、神津差ノ神、及山原(現志摩市)ノ原ヲ採リテ神原村ト定メタリ」と説明している。県神社庁の「三重県神社誌」は「明治41年1月4日に現在地へ移転の上、合祀し、神原神社と改称する」と解説。

それでも合祀前の一つ、神津佐の旧社あたりに行くと海へ延びる山並みの側面に尾根が三角形に浮かび、神山の形になっている。

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山を巡っては民俗学の大家、柳田国男が膨大な民俗伝承の研究を基に、人は亡くなったら魂が山の上空に昇って子孫を見守るという信仰を見いだした。

柳田が日本人の死後の観念を探求して昭和21年に刊行した「先祖の話」では、「人は亡くなつて或る年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、又はみたま様といふ一つの尊い霊体に、融け込んでしまふものとして居たやうである」「もとは正月も盆と同じやうに、家へ先祖の霊の戻って来る嬉しい再会の日であった」と説く。「多くの先祖たちが一体となって、子孫後裔(こうえい)を助け護らうとして居るといふ信仰」で、端的に「先祖教」としている。

また、伊勢神宮の第60回式年遷宮を記念し、当時の徳川宗敬大宮司が監修した同51年の論集「神と杜」は「関連諸学会のあらゆる分野にわたる碩学、気鋭の学者各位による貴重なご研究の成果をはじめ、雅名高い文人諸氏ならびに神山ゆかりの神職諸兄」の寄稿62篇を掲載。神山を巡り、「常には天にあり、祭の日の前後にだけその山や杜に天降ります神々」(池邊彌成城大学教授)、「神を、神体山を経由して迎え降ろしてくる」(景山春樹京都国立博物館学芸部長)と洞察している。

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古代遺跡は神山を拝する祭祀の場所という仮説を立て、全国にわたる実地調査を基礎に信仰対象の条件となる神山の形を確定した井上氏の業績は研究史の中で画期的と言える。

だが、考古学は出土遺物に関心を限定し、遺跡が立地する山並みに注意を払わず、井上氏がアマチュア研究者という事情もあり、井上氏の著作の影響力は小さい。

ただ、考古学者の岡村道雄氏は昨年の対談集「縄文探検隊の記録」(集英社インターナショナル)で「物証主義の考古学は、そもそも心を論じることが苦手です」としつつ、「縄文人は間違いなく山を神のような存在だと位置づけています」「形が大事」「一番近くにある姿のいい山」と言い当てている。