試練の平成時代 野呂昭彦前知事インタビュー 「文化力」県政転換

【平成について語る野呂氏=松阪市内の自宅で】

5月の改元で、平成30年間の幕が閉じる。平成とはどういう時代だったのか。衆院議員、松阪市長、三重県知事を経験した野呂昭彦氏(72)に自身の経験を振り返ってもらいつつ、平成時代を読み解いてもらった。

野呂氏は平成を新たな社会構造の変化が起きた「試練の時代」と位置づけ、「この国の在り方」を示すべきだと問いかける。新時代の到来を前に、平成の世を考えてみたい。

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衆院議員、市長、知事を経験し、国政から地方行政まで手がけた野呂昭彦前知事(72)の政治家人生は、まさに平成とともに歩んだといっても過言ではない。そんな野呂氏にとって平成とはどんな時代だったのか。野呂氏が直面したさまざまな出来事をたどりつつ、平成時代を紐解いてみる。

―平成元年当時、衆院議員2期目だった。改元を迎え、どのような心持ちだったか。

55年体制が崩壊し、新しい政治改革のうねりが起こっていた時期だった。まさに新しい時代が始まる、そういう感じだった。

平成6年の村山内閣誕生の時、私は自民党を離党。自民、社会党が手を組んでいるのは許せんことだと、いわゆる55年体制に反発。その年は選挙制度改革も行われ、小選挙区比例代表並立制が制定された。年末には新進党を結成した。

 ―平成8年10月に小選挙区制が導入されて初の総選挙が行われる。

大変申し訳なかったけれど、私はこれで落選した。ただ、政治改革を成さなければならないとの思いがあり、次を目指した。

しかし、3年たったころ、松阪市の奥田市長が引退となり、後援会幹部に市長に出てくれと説得され、市長選に方向替えをした。

 ―国政から市長へ。大きな決断だったのでは。

辛くて苦しい決断だった。しかし、その後に知事になるわけだが、松阪市長をやって良かったと思えることがいっぱいあった。

政治改革の「改革」というのは、選挙のための人気取りみたいなもので、目的でなく手段であるはずが、なぜか目的化していると感じた。国民のため、市民のための政治をやっているのか、もう一度、自分の中で政治の在り方を考えた。

それで、政治の目指すものは市民の安全や安心、満足感、幸せ、まちを誇りに思う気持ち、それらを向上させていくことなんだと。それをしっかりやるべきだと思った。

 ―市長から3年たち、平成15年に知事へ転身した。前任は、全国的にも改革派の知事としてならした北川正恭氏だった。

私は北川さんとは本質的に行政に対するアプローチ、見方が違った。松阪市長を経験したことが良かったと思う。北川さんの行政改革を引き続ぐと同時に、県政を見直そうとした。

 ―県政に「改革疲れ」も漂っていたが、前時代とは違う観点で、どう仕組みを変えていこうとしたのか。

新たな視点として「文化力」を取り入れた。何のための行政なのかを考え、目指すべき県民の安全、安心をベースに、満足感があるか、幸せを感じるか、三重を誇りに思えるか、それをきちんと向上させる行政施策を行うことにした。

文化力の視点で見直した一つが、いまの県総合博物館「MieMU」だ。

 ―北川県政下では計画が凍結されていた。

2期目の選挙の際に公約に掲げ、文化力の視点から計画を見直し、未来への投資として決断した。私の平成時代の、やって良かったなと思えることの一つだ。

 ―県政に対する考え方を転換し反発はなかったか。

職員はだいぶ北川さんに洗脳されていた。頭がいいので私が言っていることは分かるんだが1期目はずいぶん議論があった。議論はあったが、私も北川県政のいいところはいいとした。

 ―文化力、しあわせプランなど分かりにくいという批判もあった。

いまだに言われる。妙なことを言うと。そんなん選挙の票には何にもならんと。

もう一つ、私だからこそできたのが病院改革だ。県立総合医療センターは独立行政法人化し、志摩病院は指定管理者制にした。

私は息子の件があったので2期で辞めたと言われているが、最初から目指したのは2期だ。妻や家族にも約束していた。

2期で辞めるという思いがあったから、どんな反対があってもやり遂げることができた。選挙を考えたら、病院改革はできなかった。私が知事でなければできなかったと思う。

 ―一方で、RDF爆発事故など県政を揺るがす大事故も起こった。

あれはね、RDFはきちっとした確証が得られないまま、北川県政のときにとにかく運転を慌てさせた。私の県政ですぐに爆発事故が起こり大きな負の遺産となったが、RDF事業がなくなるということで、道筋がついてよかったと思う。

私は前時代の負の遺産をなくすためにやってきた。負の遺産というのを敢えてこちらから探しに行ったくらいだ。ただ、北川県政は原発計画の廃止など後世に残る成果も上げた。

 ―野呂県政の後、30代の若い鈴木英敬知事が誕生した。

鈴木知事はとてもいいことをやっているが、行政経営品質向上活動をやめてしまったのは一番残念だ。鈴木知事の才覚に頼るのではなく、職員の能力を引き伸ばして行政に生かす質の行政改革を追求してほしい。

 ―政治改革の一つの集大成として、国政では政権交代が行われ、平成21年に民主党政権が誕生した。

小選挙区制が導入され55年体制が崩壊し、自民党一党体制が打破された。それで民主党内閣が誕生したのだが、これが国民を失望させるような失態を犯してしまった。

私は野田佳彦元首相を非常に買っているのだが、野田さんがもっと早く総理になっていれば変わっていたかもしれない。

 ―民主党政権の崩壊後は自民の一党多弱が堅持され、政権交代はほど遠い。

例えば原子力発電なんかもね、日本の産業、経済発展のためにどうしても必要だという思いだったが、東日本大震災が起こり、政府がいくら原発が必要で安全といっても大ウソだと分かった。

だから原子力政策は完全に変えるべきだが、自民は変えることに消極的で、怖がる。既得権益を作ってきた政党だから、できない。

政権交代があると、だめな部分をそぎ落とすことができる。政治家は自分がやってきたことが間違っていたとは絶対言わない。選挙で落とされるから。それが政治家の「さが」だ。

その「さが」を変えられるのは、政治家の恩恵を受けている選挙民ではなく、選挙制度しかない。権力は長く続くと腐敗する。「さが」をそぎ落とすことができる民主主義の制度が必要だ。

いずれにしろ、小選挙区制が機能し、成熟するのにもう少し時間がかかる。後はもういっぺん自民党がきれいに分解して、二大政党路線を作り上げていくようになればね。

 ―国政、県政と振り返ってもらったが、あらためて平成とはどういう時代だったか。

昭和というのは太平洋戦争を挟み、激動の時代だった。戦後、昭和天皇が象徴天皇に変わり、今日まで平和の日本の礎が築かれた。

ただ、この平和で幸せな時代が、まさか少子高齢化はじめ、さまざまな問題が噴出する時代になるとは、そのとき気づかなかった。

昭和60年前後の中曽根内閣時代から、僕が国会議員になった頃から、本格的に変えていかねばならなかった。その悔いが残る。

 ―具体的には。

「この国の在り方」が定まっていないことだ。

伊勢神宮には20年ごとに神座を遷す習わしの式年遷宮があるが、東の神座を「米座(こめくら)」、西の神座を「金座(かねくら)」という。

古来からの言い伝えでは、「米座」の時代は平和で心豊かな「精神の時代」、「金座」は波乱、激動、物質欲の強い「経済の時代」とされている。天照大神がどちらに鎮座するかで、その時代の良し悪し、吉凶が分かるといわれてきた。

 ―今は「金座」の時代。

金座は経済は活発だが戦争も起こった。第二次世界大戦にしろ日清、日露戦争にしろすべて金座だった。黒船来襲、明治維新もだ。

平成の大半は「米座」の時代だった。この米座のときにね、豊かな時代のはずだったが、この国の在り方を提示する必要があった。少子高齢化、子どもの貧困、格差拡大など社会構造の変化が起きたが、問題は置いてきぼりになった。

私は知事会などを通じて国に対して「この国の在り方」を求めてきたのだが、この国がどうあるべきか、きちっと議論されなかったことが非常に悔やまれる。

戦後の平和を築いた日本が、将来の新たな展開へ向けどう取り組んでいくかが問われた、試練の時代が平成だった。

 ―自身を振り返って平成は。

この20年間、日米文化会館で展示する正月用の色紙を毎年頼まれ書いている。平成最後となる今回の色紙には、毛筆で「平成時代に感謝」と書いた。

私の人生を振り返ったとき、平成にいろんな経験をさせてもらった。辛かったことや厳しかったことはあったが、私の人生を象徴するような時代だった。自分の人生としては感謝だ。
◆野呂 昭彦氏(のろ・あきひこ)
昭和58年に衆院選に初当選、4期就任。平成12年5月から松阪市長。15年4月から知事を2期8年務める。28年に旭日重光章受章。現在、県総合博物館名誉館長、日赤県支部長、三十三フィナンシャルグループ社外取締役に就任。