2018年4月14日(土)

▼裁判官には「乗り降り自由」の規範がある。相手の論に理があると思えばいつでもそちらへ乗り換えるということだ。最適判断を導き出す一番の方法ということだろう

▼県の優生保護審査会の委員を務めた元裁判官が「当時は適法だったなどと言わずに、優生手術を受けた人に頭を下げるのが筋」という一方で、委員として手術すべきか判断した「記憶がない。あったかもしれないし、なかったかもしれない」。融通無碍。悪びれるところが感じられないのは修練のたまものということか

▼「審査会は県の提案にお墨付きを与える場」。県は通りやすいように説明してくるから、資料もあると「反論しづらい」そうだ。「県」を「検察官」に置き換えると、日本の裁判にいささか暗い思いをさせられるが、裁判官たるもの、そこまで割り切って委員を受けていたかと、県も複雑な思いがするのではないか

▼津家裁のいわゆる第三者委員会委員になったことがある。委員長に家裁所長が就いたので、答申は委員長が所長へ、すなわち自分が自分に諮問し、答申もするのかと言ったら、事務局を動かすのには所長である自分が委員長であることが機能的だと言われた。委員には別の判事も調査員もいたが、何も言わなかった

▼その判事がその後妙に好意的だった感触はある。裁判所の常識は世間の非常識か。空気を読むことにかけて世間の常識は裁判所の常識でもあるか

▼「しっかりした議論をせず結論をだしていたとしたら」責任を感じると元裁判官。担当した人は「おかしいと思うなら発言すべき」とも。最適判断である。