伊勢新聞

<まる見えリポート>松阪・国史跡「天白遺跡」 「神山」を指す配石遺構

【阿坂山(左)と堀坂山(右)を示す配石=松阪市嬉野釜生田町の天白遺跡で】

三重県松阪市嬉野釜生田町の国史跡「天白遺跡」(縄文時代後期)に散らばる西日本最大級の配石遺構群は意味するところが分からなかったが、周りに見える阿坂山(松阪市)や堀坂山(同)など三角すいの山の方向にそれぞれ向いていることが分かった。大分県在住の古代史研究家、井上香都羅氏が全国の銅鐸(どうたく)出土地や縄文・旧石器遺跡約1000カ所を踏査し、全て三角すい形状の「神山」の正面に立地していると突き止めている。その例に漏れなかった。

(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

 天白遺跡は県埋蔵文化財センターが平成4年度に調査し、12年に国史跡になった。祭祀(さいし)に関わる土偶や岩偶など2千点を超える膨大な出土品は先月16日、県有形文化財に指定された。配石遺構は盛り土で保護。23年に整備した遺跡公園には13区画に分けて配石を再現している。

同センターは30個ほどの配石遺構を確認。調査報告書によると、大きさは1―2メートルほどで、円形や楕円(だえん)形の他、方形もある。「周囲に石を巡らすタイプ」「内側にも石を巡らすタイプ」など4類型を見い出したが、「性格を論及する十分な根拠を得ることはできなかった」としている。

遺跡公園の南側は石がたくさん残り、元のまま復元できている。同心円状に巡る石の中の目立つ石を結んだ先や、逆「ハ」の字に並ぶ石列の開口方向を見ると、阿坂山(桝形山、白米城跡)や堀坂山の頂上部を指していることが分かる。

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井上氏は弥生時代の銅鐸の全出土地約250カ所と銅矛・銅剣の全出土地約150カ所の全てに出向き、主な縄文・旧石器遺跡なども合わせ計約1000カ所の古代遺跡全てで、正面に三角すいの「神山」を確認した。「銅鐸『祖霊祭器説』」(9年、彩流社)や「古代遺跡と神山紀行」(15年、彩流社)を刊行している。

神山は中央に円すい状の三角山があり、後ろ左右に山が並ぶか、手前で左右の山が交差し、全体のつり合いを取る形が一般的。巨岩の磐座(いわくら)を伴う。井上氏は「神山自体を祀るのではなく、山に宿った祖霊神を祀っていた」「霊が神岩から昇天し、再び降臨してくる」と考える。

銅鐸は山腹に埋まっているため、出土した斜面の向かい側に対象の神山があり、前方後円墳は前方部に神山があるという。「銅鐸の場合は、開口部が神山へ向けられていて、神山の祖霊をこの銅鐸内へ迎え入れたが、前方後円墳の場合は、前方部が神山へ向けられていることから、神山の祖霊をこの前方部から古墳の玄室内へ迎え入れた」とみる。

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井上氏の著作に三重県内の遺跡も出てくる。日本最古の土偶が出土した同市飯南町粥見の粥見井尻遺跡(縄文時代草創期)は「東北東に烏(からす)の形をした烏岳が拝される」と示す。多気町四疋田の銅鐸出土地の正面に三角すいの神山を見つけている。

全国の一宮など古い神社には神体山があり、伊勢一宮の椿大神社(鈴鹿市山本町)と鈴鹿山脈の入道ケ岳は有名だが、伊賀一宮の敢国神社(伊賀市一之宮)と隣の南宮山、志摩一宮の伊雑宮(志摩市磯部町恵利原)と近くの和合山の関係も、それぞれ神体山として挙げている。

著書に載っていない県内遺跡でも神山は見つかる。津市高茶屋小森町の高茶屋銅鐸の出土地からは緩い傾斜の二等辺三角形の堀坂山が望め、手前の阿坂山まで4峰が山体の右端をそろえて連なる。

今年1月に史跡公園として開園した明和町坂本の坂本古墳は前方部正面に多気町の城山と大台町の浅間山の三角形が前後に重なっている。

玉城町久保の野田古墳の前方部には、三角形の大日山が風車が建ち並ぶ稜線(りょうせん)を背後にそびえる。古墳横は巨石を祭る千引神社や「山の神」の石碑などが複数集まる「聖地」となっている。

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井上氏は「縄文時代になると、遺跡と神山の関係が多少違ってくる」「周囲の見渡せる盆地状の地形のところが遺跡になっているところがある」と説明。「秋田大湯のストーンサークルは周囲の見渡せる盆地状のところで、対象の神山が複数のようだ」「環状列石の中の立石がそれぞれの対象神山へ向け立てられている」と記し、状況が天白遺跡と似ている。

井上氏はこれまでの考古学について「土器・石器など出土遺物の研究が主」「これでは遺跡と神山のかかわりのキッカケすら見出すことができなかったのも、無理からぬことと考える」と指摘。「遺跡を見る場合、『何故そこに遺跡ができたか』ということが、いちばん重要」「掘るだけでは駄目」と提起している。